大衆社会のパトロネージ 〜振り込めない詐欺と嫌儲の狭間〜

伊集院光、相次ぐ長寿ラジオ番組終了に思う
いろいろ考えます。私も十五年前から伊集院光のラジオを聴き続けていました。
私は、
西日暮里〜田端間の短さを教えてもらいました。
岩槻に変死隊のCDを買いに行ったりもしました。
黒澤明の面白さを教えてもらいました。
常田富士雄の「私のビートルズ」は今でも暗誦できます。
笑いのあり方を教えてもらいました。
そしてなにより、深夜に光をもらいました。
スポンサーがつかなくなったら、番組の、パーソナリティーの才能云々に関わらず、その幕を閉じねばならない。もし伊集院の番組でそんなことが起こったら、と思うとぞっとします。通常の企業であれば、成果主義で判断されるところが、裏の事情によって、成果と関わらないところで判断され、首を切られる。それが「タレントという水商売の宿命」と言ってしまえばそれまで?
ほんとうにそうでしょうか。
本当に守りたいものがあるなら、自分たちの身銭(みぜに)を切らなければならないときがある。今、私たちに、いや日本人に求められているのは「翼賛(よくさん)する力」なのではないでしょうか。
例えばニコニコ動画のタグによく見られる言葉に「振り込めない詐欺」というものがあります。これは、あまりにも完成度が高い動画が無料で提供される事に対して、「振り込まないと申し訳ないようなただ働き」と賞賛する言葉です。この言葉に見られるように、我々にも「すばらしいものに対価を払う」意識はあるのです。たとえそれが今まで無料で提供されてきた「放送」の世界であっても。
その一方で、これまでのニコニコ動画の流れから伺える「嫌儲」(けんちょ)という症状もしばしうかがえます。ニコニコの混雑する時間帯になるとしばしプレミアムの快適さを訴える声と、それに反発する声が入り乱れます。これは無料で提供されていた放送コンテンツがその規模の拡大と共に、有料化を迫っているのではないかという「怯え」と「既得権の侵害」に対する、苛立ちが相半ばするものでしょう。
振り込めない詐欺嫌儲という相反する要素がニコニコ動画という放送サービス中に存在しているのです。二つの意見は正面から対立するものなのでしょうか。両者の歩み寄れる点はないのでしょうか。私はそうは思いません。これら二つの言葉は「翼賛する力」に変えていけるものなのです。
日本人はリスクテイクを極端に嫌う民族です。自身の資産は現金所有や銀行貯金などの「安全資産」での管理が半分以上で、証券などの「金融資産」は欧米諸国に比べ低い割合となります。
これは日本人の集団主義と根を一にするものです。なるべく大勢の人間が選ぶものを選択し、ローリスク、ローリターンの状態を保とうという意志です。その内向きな志向は、ラディカルな方向に進むときでも変わらず、集団でなら、周りに自分の立場を保証してくれる「群れ」があるなら、信じられない蛮行だってできるのです。
この性向が「個人」としての「投資」や「翼賛」を抑制し、集団の意志の流れに寄り添う「性向」を生み出しているのです。
で、話は「振り込めない詐欺」と「嫌儲」に戻ります。実はこの二つの言葉とその意味を考えることは、日本人の「集団主義によるローリスク・ローリターン」な性向を打ち破るきっかけとなるものなのです。
振り込めない詐欺」とは、ニコニコ動画というハードに対してでも、東方やアイマスというジャンルに対してでもなく、「動画の作者個人」を「賞賛したい」という思いの発露です。ジャンルや放送媒体という「仲介者」を通しながら、その上で「作者個人」が報われるべきだという思い。「マンツーマン」の思想がそこにはあります。
嫌儲」も、実は作者個人への「嫌儲」よりは、既存のジャンルを利用した「勝手な儲け」や、さもこちら側に親しそうな顔で近づきながら、最初から「儲け」を目的にしていた事に対する「裏切られた」気持ちの表れになります。もちろん「嫌儲」の人も努力した作者は「報われるべき」と思っています。彼らが嫌うのはその努力が「最初から儲けを目的としていた」場合なのです。
振り込めない詐欺」はともかく、「嫌儲」はムラ社会的な発想に近いものがあり、日本的です。「ムラの住民の共有資産(ジャンルやらニコニコ動画)を使いながら、自分だけ儲けようなんてケシカラン」みたいな。しかし、不思議ですよね。「出資しない我々が、何を根拠に彼らに口出しできるのか」
ニコニコ動画という場を共有しているから?同じジャンルが好きだから?ファンだから?たしかに一理あります。しかし、彼らの心の肥やしとなることはできても、彼らを「食べさせていく」ことはできません。
もし、製作者が最初は趣味でやっていた動画製作を続けていくうちに、「こんなに喜んでもらえるなら、この分野で食べていけるんじゃないだろうか」と思ったとしても不思議ではありません。事実それだけの労力を払っている人は何人もいます。そうなったとき、そしてもし、効率的に彼ら「個人」に「課金」する制度が出来たとき、私たちは彼らを「嫌儲」することができるのでしょうか?

ムラに一人の「面白い芸をする人間」がいるとします。
村人は彼の芸の面白さに毎晩彼を呼びつけては芸をさせます。最初は「皆が喜んでくれるとこっちもうれしい」と心の張りにしていた彼も、連日連夜のことで疲労し、昼夜逆転の生活を送る事になります
そうなったとき、村人は「おまえは俺たちが喜んでやっているんだから芸をするのは当たり前。昼の仕事をサボるとは何事だ」と言うでしょう。そしたら男にできることは芸をやめて、村人と同じ生活するしかありません。
ムラから「芸人」はいなくなります。

ニコニコ動画に「芸人」=うp主を食べさせていく力がないなら、やはりテレビやその他の放送ジャンルの下部機関として才能の卵を生み出し、上部機関へと吸い上げられていく体制が続くでしょう。何せ向こうは「カネ」があります。芸人を食わせていく「力」がある。
そういう「力」そのものを忌避するのはやめませんか?「力」を忌避するより、自分たちで、自分たちの好きな人間個人に「振り込める力」に翼賛したほうが建設的ではないのでしょうか。
最初から無料で快適な「サービス」が提供されているというのは嘘っぱちです。そのサービスを維持するための費用を実は我々は間接的に搾取されている。気付かないうちにスポンサーの商品という形でマージンを払わされているのです。テレビもラジオも。しかしその間に幾重もの人や層があるから、直接的ではないから、我々は「出資」していることに気付かないし、タレントや番組の降板にも口出しできない。
もし「理不尽な降板」や「理不尽な番組作り」を歎くなら、「作り手に直接出資できるメディア」に翼賛するしかないのです。そして「リスク」を共有する「パトロン」に「同士」になるしかない。「直接的なリスク」を畏れたら「間接的なリスク」に気付かぬままに搾取され続けるだけなのです。
誰でも良いなら、提供され続ける放送の波にたゆたうだけならともかく、「特定の個人」を愛するなら、その人にずっと舞台に立っていてほしいならパトロネージするべきなのではないでしょうか。そういう草の根の声が、協力が、出資が、届く社会になってきているのですから。
あなたのできる範囲の力で。ごくわずか、でも。