「私的映像」は「映像権力」からどのような権益を奪えるか

昨日からだいぶ反響が大きくなっているようですね、TBSの初音ミク問題。
初音ミクがTBSに酷い報道のされ方をしたそうです - 敷居の部屋

http://d.hatena.ne.jp/kagami/20071016#p2
ここで昨日の話をもう少し展開させてみたいと思います。昨日は「映像権力」であるところの放送局について伝えましたが、今日はニコニコなどに見られる「私的映像」について考えることでそれぞれの利点を浮き彫りにして見たいと思います。
今回も、というか私が度々口をすっぱくして主張しているのは
初音ミクは最先端の相互インタラクティブの姿だって言ってんだろ、ダラズ」
ということです。何故「映像権力」は数年前から「テレビは変わる、地デジに変わる〜♪」と地上デジタル放送に向けてのテレビの買い替えを要求していたのでしょう。「相互インタラクティブを実現させるため」というのが理由の一つにあります。
相互インタラクティブ。これは従来の一方的に発信されるテレビとは違い、我々もテレビの内容に参加し、番組を共に楽しめるという画期的な、内容。地上デジタル放送を導入した家庭では、マラソン中継の順位を同時に見たり、クイズ番組に参加したり、いろいろやっています。アンケートとかも取ったりしてるようですね。
…でも。これって本当に相互インタラクティブですかね?
というのはやっぱりホストはテレビ局で、ゲストは我々なわけですよ、ハイ。相互って言ってもこっちが出すクイズに草野さんが鋼の脳みそと筋肉を駆使して答えてくれたり、野々村誠がピンボケ回答をしてくれるわけじゃない。「映像権力」であるテレビ局が用意した枠組みの中でしか、相互インタラクティブを楽しめないのです。限定的なんですね。
一方、「私的映像」であるニコニコ動画は視聴者が画面にコメントできるという、ラクガキ、チャット感覚を基にしてディレクターとユーザーの垣根をあっという間に埋めてしまいました。そして、アイマス。視聴者が作る、視聴者のためのカウントダウンTV。アイドル。そこでの送り手と受け手の境界は極めて曖昧です。
で、最終的には既存のテンプレートすらない。キャラクター設定も歌も、果てはビジュアルの細部まで視聴者が考える、本当の意味でのヴァーチャルアイドル初音ミクが登場してしまったのです。ニコニコ開設から一年も経っていないというのに、もう既存のテレビ局より先を行ってしまったのです。そう、完全相互インタラクティブ
この二つの相互インタラクティブの違いは、ゲームのRPGTRPG(テーブルトークアールピージー)の違いと考えていただければ分かりやすいです。
え、なに?そんなの知らん?では僭越ながら簡単に紹介。ゲームのRPGは、ご存知ドラクエとかFFなどのアレです。プログラミングされたコンピューターゲームです。これは決められたデータに基づいてプレイし、そこから逸脱することはできません。
一方のTRPGはサイコロ一つに人生賭ける、会話主体のRPGです。これはゲームマスターが設定した世界を仲間と一緒にプレイするゲームで、重要な選択肢はサイコロで行います。これはプログラミングでもなんでもなく、ゲームマスターが決めた枠組みの中でプレイヤーが自由に行動、発言する形式を取ります。うーん説明が難しい。これは人数とゲームマスターの実力さえあればどんな世界や設定も組むことができる、完全に自由なRPGです。これを限定させ、プレイヤーをプログラマーの指示通りに動くようにしたのがコンピューターゲームRPGなんですね。すなわちTRPGRPGの母体というわけです。
「映像権力」である既存のテレビ局と、「私的映像」の集合体であるニコニコの、相互インタラクティブにおける関係はRPGTRPGに非常に近いわけです。
で、「映像権力」が数年かけて行ってきた相互インタラクティブは、「私的映像」の初音ミクに、先進性において惨敗しているわけです。現状。ただしそれはテレビ局が傲慢だからとか、無能ぞろいだからというわけではありません。それが「映像権力」の性質なのです。
「映像権力」は放送を行うことを義務としています。これは強要といっても差し支えない。彼らは放送を続けなければ死んでしまうのです。そして放送を続けるためには手堅い番組作り、昨日述べたような大多数の視聴者に分かるような番組を作っていくしかない。もちろん冒険はします。PTAに叩かれた番組なんてキラ星の如く。でも、根本的な違い。
「彼らはいつまでも遊んでいられない」
青島幸男だって、とんねるずだって、公民の教科書にあんな形で載っているたけしや東国原知事だって、いつまでもそのはっちゃけたスタンスではいられなかった。何故なら、彼らはテレビで食っているから。いつまでもはしゃいでいるだけでは、メシは食えない。遊ぶように、軽やかに視聴者には振舞っているように見えても、血の涙を流して、そこにしがみ付いているのです。それはスタッフもディレクターもプロデューサーも、同じ。「権力」は辛いのです。
一方のニコニコ動画非営利団体(MAD製作者は)です。しかも金がかかっていないのである意味オナニー映像でも文句は言われますが、責任は取らされません。そう、「私的映像」はこの上なくフットワークが、軽い。だから冒険もできるし、自分がやったらいいと思うことを許可を取らずに正面からぶつける。ウケれば御の字。ウケなくても責任問題にはならない。この「軽さ」こそが「私的映像」の最大のウリであり、初音ミクが相互インタラクティブを早々と成し遂げた要因なのです。
ただし、「私的映像」には人間は定住しない。いや、したら、もしできるくらいの利益が上げられるようになったら、もうそれは「映像権力」の仲間入りなのです。非営利、無責任、および手軽。この三種の神器なくては「私的映像」は「私的」足りえない。非営利だから飽きた人間は出て行くし、興味のでた人間は気楽に入ってくる。無責任だから思い切った試みができるし、そうすることに躊躇がない。手軽だからユーザーがディレクターになるし、ディレクターがユーザーになる。おまけに作り手の裾野が広い。「映像権力」あってこそ、その逆を「私的映像」は行くことができるのです。
できれば両者が付かず離れず、牽制しあい、拮抗しあういい関係(仲良しという意味ではない、それは最悪だ)でありますように、願うね。