スリップストリームアタック

ガールズ&パンツァー劇場版終盤で結成された、レオポンさんチームのツチヤ、黒森峰のエリカ、プラウダのカチューシャによるスリップストリームアタックの図。

しかし、ツチヤ(キュアベリー)、エリカ(キュアハート)、カチューシャ(キュアピース)と、プリキュア3人によるアタックでありながら、大学選抜の3人の一角しか崩せなかったところに、相手の強さを感じますね。同時に西住流の姉妹は大学選抜2人+愛里寿無双を跳ね返したことを見ると、高校生の中でも別格の強さなんだろうなあ…と。

(下書)

(人物だけの色つけ)

常陸国大洗社にて神仏奇瑞を顕すの語

今は昔、常陸国*1に大洗磯前宮と云ふ社あり。村人、社頭に市を成し、よろずの海のものを商ふ。懇ろに神に仕え朝夕社に詣でける。

或時、尋常の風体に非ざる者等、数多具して来たり。街区に満ち、辻辻、郷舎を指して相哄笑す。霊地に非ざる処を頻に拝み騒ぐ故、村人怪しみて之に問はば、「がるぱん善きぞ」とのみ答ふ。又社に参りては傍に木版を頻りに打ち付け、五色の彩にて異境の兵具を備えし端正美麗の女衆を描けり。
常人とは異なる様なれども、海の産物を供すれば巨多の銭貨にて報いる故、村人之をがるぱんさんと号し、来る毎に饗応す。
其後、村人、国厨*2へと魚酒を貢ずることあり。然るに国司「当郡*3の贄既に到れり、重ねて持ち来るに及ばず」と云ひてえ取らじ。村人奇しく思ひて、府蔵の内を伺えば、果たして贄の魚は嘗てがるぱんさんに捧げしものにやあらん。

旧紀に曰く磯前宮は田邑帝*4の御代に少彦名神本地仏、薬師大菩薩*5が顕現せし地なり。神仏を厚く憑み奉るによりて霊験再び現れたるやと近郷の者は語りき。更に大洗社の別宮・酒列宮*6の名は海龍王さから*7の音転じたるもの*8なれば、端正美麗の女衆の画は竜女を描きしものか。此の如き話は唐土外典*9にも見えたり。

また或人云はく、常陸は慈覚大師*10東巡の地なれば、女衆は竜女には非ず、法華経外護の十羅刹女*11なりと。受持読誦の徳に応じて眷属を遣す。鬼女なれば、併せて弓箭砲雷を描き出すこともあらんとぞ。がるぱんさんは神仏何れの顕現やと聖俗交々語れども、終に分明ならず。

常陸国主、稀有の事にて之を国解*12申上す。上又此を賞し、更に三年の税を免ず。村人辻々及び岬の大塔に女衆の尊像を祀り食堂を設け、市の傍らにはがるぱん堂を建て、弥々懇ろに供養しける。

末法以後の本朝に於て神仏交々瑞応を顕す、まこと奇しきことなりとなむ語り伝えたるとや。


〈現代語訳〉

茨城県大洗磯前神社に神仏の奇跡が起こる話

昔、常陸国茨城県)に大洗磯崎神社という社があった。村人は社の前に市を出して、海産物を商って暮らしていた。神への崇敬厚く、朝夕お参りを欠かさなかった。

ある時、ただならぬ姿形のもの共が大勢でやって来た。彼らは街に満ち、何もない道端や家を指差して互いに笑あっている。(聖地巡礼)村人は怪しんで声をかけるが「ガルパンはいいぞ」としか答えない。彼らは神社に参ると板絵を奉納する、そこには五色の彩(コピックマーカー)による兵器を持った異国の風体の女たちが描かれていた。(痛絵馬)
ここら辺にはいない人々だが、海産物を与えれば多く銭を出して買ってくれるので、村人は彼らをガルパンさんと呼んで、大洗に来るたびに迎え入れた。

その後、村人は常陸国府の御厨に税の魚を納めに行った。しかし役人が言うには「大洗からの税はすでに貰っている。度々持ってくる必要はない」とのこと。不思議に思って蔵の中を見せてもらうと、納められた海産物はガルパンさんたちに与えのと全く同じものであった。(ふるさと納税1億円)

九世紀の国史文徳天皇実録には文徳天皇の御代に大洗に少彦名神本地仏である薬師菩薩が現れたと記されている。村人が神を厚く尊ぶので霊験が再び現れたのだろうと近隣住民は語りあった。
さらに磯崎神社の別宮・酒列磯崎神社はサカラ竜王の名から採られたものなので、絵馬の女性の姿は竜宮の女官を描いたものか。このような話は唐代の伝奇小説にも見られる。

ある人が言うには常陸国は慈覚大師・円仁が巡礼した土地なので、絵馬の女は竜女ではなく天台宗の根本教典・法華経を護る十羅刹女で、法華経を信仰する功徳によって眷属を遣わされたのだ。
羅刹という鬼の女であるから、弓矢や砲雷を共に描いているのだろうと。このようにガルパンさんは神仏いずれの遣いであろうかと僧侶や俗人は様々に語り合ったが、最期まで分からなかった。

当時の常陸介(県知事)は世にも珍しいこととこれを中央に申し上げた。帝はこれにいたく感じ、三年の税を免じた。(観光庁による奨励賞受賞) 
村人は町中や岬の大塔(マリンタワー)に女の似姿を飾り、ガルパンさんのための食堂(ガルパンカフェ)を設け、市(プレミアムアウトレット)の傍にがるぱん堂(ガルパンギャラリー)を建てて、彼らを歓迎した。

末法以後千年近い日本において、神仏が混ざり合って顕現する。本当に有難いことだと語り伝えたとのことだ。

*1:律令国家の行政単位。神亀年間に信太・河内・筑波・白壁・新治・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂等の諸郡となる。本説話の舞台である大洗は茨城郡に属す

*2:国府に関連する食糧施設。大洗からの税は京進の贄としてもよかったが、史料がなかったため、ここでは国府経営のための食料を上進する税とした

*3:茨城郡。前出

*4:文徳天皇。八五〇―五八在位。仁明天皇の第一皇子

*5:9世紀を中心に信仰された菩薩形をとる薬師如来神仏習合の象徴的な仏とされ、太秦広隆寺にもこの姿をかたどった像が残っている。延喜式に載る磯前神社の正式名は大洗礒前薬師菩薩神社

*6:酒列磯前神社。斉衡三年(八五六)に同じく顕現した

*7:娑竭羅竜王八大竜王や、観音二十八部衆の一人。護法の竜神で請雨法の本尊。娑竭竜王とも。

*8:たしか五来重が言ってた

*9:中唐の伝奇小説である柳毅伝などに見える人龍交流の説話を指すか

*10:天台宗山門派の祖・円仁のこと。茨城県内には承和寺など円仁創建と伝わる寺院が残る

*11:法華経陀羅尼品に説く法華経を読誦するものを守護する鬼神。

*12:平安時代から中世初頭にかけて下級の者が上申する際に用いた文書様式・解文の一種。国情や奇瑞などの報告として、諸国から太政官へと送られる

彼と我の落差について

彼と我の落差は埋める必要がない。
そのために家族がいて、同心円状の身内や友人がいる。
彼らに救いを求められないときに、人は「越境」する。
そして越境者として、外側からものを語る。
そうして、内と外の境界がなくなっていき、外の言説のために、内を圧迫するようになる。
忠孝が並び立たないという、中国四千年の課題は実はこの齟齬にあり、公と私の乖離もそこにある。
現代の乖離とは、私の最も奥の部分が、そのまま、公へとアクセスできるとの「勘違い」にある。

しかし、彼らが繋がる公は公ではない。
その都度消費される私でも公でもない、さりとて見かけは公に見える空間によって我々は消費されている。自分が消費の主体であるという錯覚のまま、この公と私の曖昧模糊とした怪物の餌となっている。

どうも蓋

心は掛かるこの蓋よりぞ、
溢れ出もすれ、締まりもすれ。

なら常在の心は何処?

滔滔垂れ溢る情なりや、
きりりと締める我なりや。

有情非情も共に情、
ここにありてやここになし、

ああ、蓋。ああ蓋よ。

君のみが常に隣り合う、
君のみが情の可触民。

どうも、蓋。
しかり、蓋。

君こそが、あに、心ならんや。

華厳経

いちの中にひゃくせんまんおくがあり、
ひゃくせんまんおくの中に、一がある。

ならば知れ。

この小刀のきっさきの、
その先端の、さきのさき。

ひゃくせんまんおくのなかのいちの、
そのなかのひゃくせんまんおくの、
さらにそのなかの、

中の、
なかの、
中のなか。

そこまでいけば、
そこから見れば、

きっとこの世は
きりとりほうだい。

ああ杜牧

ああ、杜牧。
君、嘗て得たり薄幸の浮名。
浮名、ふわと揚州を出でて、
天明、何処へ去り行かん。

ああ、杜牧。
君、唐朝に引く手数多。
牛李共に君を愛し、
影ながら守り、要路へ導く。

ああ、杜牧。
君、歴史を語る。
いつか還る、いつか繰り返すその日を、

ああ、君よ、
ああ、杜牧。
君がもし、
君が言うよな歴史なら。

君は立つのか、
今も立つのか、
四百八十寺、
煙雨の内に、朦々と。

「咲-Saki-」の先進性について ―フレームバトルという概念―

どうもです。
実は私、mantrapriは漢詩を少々やっておりましてですね、そんな時、ふと思ったのです。
漢詩と麻雀って共通点多いな、と。
2、3区切りであること、平仄、通韻など、役を作る為の縛りがあること、牌をそろえるように詞を集めていくことなどなど。
なので、麻雀に近い楽しみ方で漢詩のルールを覚えられる「漢詩麻雀」なるものが作れれば、漢詩がもっと身近なものになるかもと思い、まったく不案内なのですが、麻雀を勉強することにしました。

――「咲-Saki-」を、使って。*1

で、全巻を読んで、この漫画がまったく新しいバトル形式で描かれていることに気づいたのですね。そう、この漫画には、「フレームバトル」とでもいうべきシステムによって貫かれているのです。今回はこの先進性について、話してみたいと思います。

まず、フレームバトルとは何か、ということを説明します。咲-Saki-というマンガは基本、先鋒から大将の五人試合で展開します。点数は持ち越され、大将戦後の点数で勝敗が決定します。それだけなら、よくあるトーナメント戦マンガと同じですが、咲の独創的な部分は、以下の三点。

  1. 先鋒〜大将のオーダーは変更なしで固定
  2. それぞれのキャラのファイトスタイルを固定
  3. ファイトスタイルに対する相手の反応で敵キャラの個性を描く

この漫画、主人公チームのオーダは固定されています。これによって、次の試合、その次の試合で、前回のバトルとの比較がしやすくなります。
さらに主人公チームの五人にはそれぞれ。特殊技能というか、戦闘スタイルがあり、卓を囲む残り三チームの三人も、その能力と対比、反応するような能力をもつキャラとして描かれます。
こういう構造は既存の少年漫画にも共通します。しかし咲の面白いところは、主人公チームの特殊技能が「場」に対して作用するということです。

そう、咲というマンガは主人公たちのファイトスタイル(フレーム)を通して、残り三人の個性を、翻っては主人公たちを浮かび上がらせるのです。

先鋒・片岡優希・・・前半戦でのスパート、後半戦での減速
次鋒・染谷まこ・・・場全体の形、流れ、雰囲気を読む。
中堅・竹井久・・・悪手、行儀の悪い打ち方、オカルト肯定(奇)
副将・原村和・・・コンピューター麻雀、オカルト否定、空気が読めない(正)
大将・宮永咲・・・場を囲む全員が底上げされる、オカルト「越え」

この戦闘スタイルに対比するようにそれぞれの敵チームが描かれ、それも1対1のバトルではなく、四人バトルなので、戦闘スタイルへの対応や複線の張り方、発動の仕方は千差万別になるわけです。
これは既存の麻雀マンガでもそうなのでしょうが、咲-saki-の場合はオーダーを固定して、同じ順番でそれぞれのファイトスタイルを一貫して見せ続ける「フレーム」があるので、その効果とキャラの個性、役割付けの効果は倍増しされます。
さらに、敵チーム、味方チームとも試合選手以外は、モニターで全部の手牌が見れるので、それに対するコメントが、試合していない人間にもでき、そこで各キャラが敵味方問わず解説役となり、キャラの個性と、フレームを強化していく。
さらにこの「フレーム」が面白いのは、大将へと場が進むにしたがって、「勘」や「流れ」がどんどんオカルト濃度が高いものへ、つまり「魔」が場を支配するようになっていく。
先鋒、次鋒、中堅までは比較的大人しい魔が、副将、大将戦で牙をむいてくるのです。

副将の和はコンピューター麻雀によって魔を無視することはできますが、「魔がある」ということを認識して、それと戦うことはできません。だから全国大会二回戦では魔を認識できる三人の蚊帳の外に置かれてしまいます。

そして大将の咲は自身が最大の「魔」でありながら、魔をうち倒し、場を通常の世界へと戻す役割を持ちます。

たとえば天江衣戦では、咲含む三人で協力し、魔の空間を打ち消して皆で打つ麻雀空間へと、回帰させる。
全国大会二回戦では、北と南の魔に囲まれながら、それを打ち倒し、あまつさえ凡人代表の姫松高校の末原を「もっとも強い人が残ってしまった、次は勝てません」と一番評価する。
この作品における「魔」とは、己でない「慮外の力」によって麻雀を打つこと、打たされること。咲は自身がその力の持ち主でありながら、結果その力に支配された場を「否定」し、「皆で楽しむ」戦いを、する。

それが点差0で進む力、場をイーブンにするという咲の、「魔」にして「和」(わ)の力、なのだと、思います。

咲という物語において主人公たちはフレーム。オーダーの変更がなく、順列に物語が進むことで、同キャラの次回戦が、前回のパターンを踏まえているか、外すか、正か奇かという「読み」の楽しみにもつながってきます。

主人公たちが各々別のフレームを持つことによって、同じ麻雀漫画でありながら、試合ごとに全く違う景色が広がる。

正攻法のバトルか、オカルトバトルか、ノンオカルトバトルか、オカルトバトルの中に独りだけ正攻法か、オカルトバトルをみんなで「越えて」いくバトルか?

試合が繰り出され、何重にもそれぞれのバトルが重なるにつれて、フレームの中で、裏を見せ、新しい展開を呼び、さまざまなテクニックが駆使され、蓄積されていく。
この「フレームバトル」の概念の創出、まったく見事としか言いようがありません。

テニプリやこの作品のように、勝敗による順列ではなく、「場」によってキャラクターを深化させることに注力する漫画こそ、まったく新しい、これからのスタイル。こんな新しいシステムの漫画が、もっともっと、増えてほしい。

*1:何故、咲か。まあ、ぶっちゃけると、かんむりとかげさんの同人誌があんまりにも素晴らしかったの原作が読みたくなった