彼と我の落差について

彼と我の落差は埋める必要がない。
そのために家族がいて、同心円状の身内や友人がいる。
彼らに救いを求められないときに、人は「越境」する。
そして越境者として、外側からものを語る。
そうして、内と外の境界がなくなっていき、外の言説のために、内を圧迫するようになる。
忠孝が並び立たないという、中国四千年の課題は実はこの齟齬にあり、公と私の乖離もそこにある。
現代の乖離とは、私の最も奥の部分が、そのまま、公へとアクセスできるとの「勘違い」にある。

しかし、彼らが繋がる公は公ではない。
その都度消費される私でも公でもない、さりとて見かけは公に見える空間によって我々は消費されている。自分が消費の主体であるという錯覚のまま、この公と私の曖昧模糊とした怪物の餌となっている。