自意識過剰と自己中はちがうんだぜ

と、ふと考えたので、久しぶりに一言。
自意識過剰と自己中って、混同されやすい。人によっては自分がどちらの振る舞いをしているか、弁別できていない。
この二つの思考の違いを見るリトマス紙として「世間」を持ち出すか、持ち出さないかというのがあると思う。
自意識過剰は、容易に世間を持ち出す。
「オレはいいけど、皆はどうかわからない」
「オレには分かるけど世間受けするか分からない」

一見、自己中心的な、自分の意見があるかのように見えるけど、さにあらず。「世間」という外部規定を自分の中で勝手に作って、それを根拠にしているだけ。「自意識」というのは常に他者の目を気にする事によって生じるわけだが、かといって自分が認識する「他者」が果たして十人が十人同じように「規定できる」他者なのかということになるといささか心もとない。「自意識過剰」な人(自分も含めて)は、他者を確定する自己の「バイアス」に関する鷹揚さというか、自由さが欠如している気がする。ありていに言ってしまえば、
「なんで自己規定でしかない『他者』を絶対的なものとして扱うことが出来るんだよ」
ということか。で、ありもしない他者を膨らませて、その中での「自分の特権性」「自己の優位性」を延々と考える。わだかまるわけですね。
「自己が確立」しているように見えて、全然そうではない。妄念と踊っているだけ。「世間が悪い」、「世界が悪い」、「誰も俺を理解してくれない」と言いながら、その「世間」、「世界」、「誰」を勝手に自己定義しているのです。「レッテル」を作るのに寄与しているのです。差別に加担しているのです。「リア充」も「オタク」も、どこにもいないんですよね。うん。
よくない。

で「自己中」。私はアメニモマケズ、カゼニモマケズの「デクノボウ人間」にはなりたくないけど、「自己中」にはなりたいです。
自己中な人間は「自分を優先する」ことが正義だと知っている。不用意に心の中の「他者」をもてあそんだりしない。自分を中心に形而下で考えられるから、自分の周りの人間を大切にする。自分とっての「世界」というものが「把握できる範囲を基礎として構成されている」ことを知っているから、宇宙や世界や日本よりも、自分を大切にするし、家族を大切にするし、仲間を大切にする。「地球に住む自分」ではなく、「自分の住む地球」と考えることが出来る。
外部からの評価に傷つくことがあっても、自己中であれば、他社との関係性を持ち出して自己を過大に正当化、ないしは過小評価することもない。単純に改善点と対応を考えるだけで、わだかまりを敷衍することもなくなる。
全体から帰納的に自己を形成するのが「自意識過剰」なら、自己から演繹的に全体を獲得するのが「自己中」なんだと、私は定義します。ありもしない全体と、ありもしない自己を戦わせて苦しむよりは、一回ザッハリッヒカイト(即物的)な振る舞いに戻った方が健全な気がします。
釈尊の述べたもうた「天上天下唯我独尊」ということです。宮沢賢治の「アメニモマケズ」に見られる常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の思想では、「ミンナカラデクノボウトヨバレ」の部分とか、他者を勝手に規定して、ヒロイックに酔いそうな気がする。あれでは自殺者は減らない。*1
だから自己中になりたい、頑張って自己中になりたい。頑張らないで自然に自己中できるようになりたい。
あー。

*1:法華経の作者や宮沢賢治はあくまで自己の精神を表現するために外圧を仮構したに過ぎないのだが、我々がそれを受け取ると「仮構された外圧」そのものに実体を持たせ、装置を憎んでしまう。「常不軽菩薩を馬鹿にしたヤツラは許せない」「けんじをデクノボウと呼ぶ人間は憎らしい」などなど。めんどくせえ、というか業(ごう)をわざわざ作っている