嘘の隙間風が真実か?はたまた逆か?

「事実は小説より奇なり」とはようゆったもんです。
ここ数日世間を騒がせている平塚5遺体事件に関するいろいろな情報が入ってきますが、犯人と目される岡本千鶴子容疑者にかんする情報を知れば知るほど、ある小説に思いを致すようになってきました。

少女地獄 (角川文庫)

少女地獄 (角川文庫)

地獄少女じゃないよ・・・念のため。
これは夢野久作の短編集なんですが、ここに収められた『何でも無い』に出てくる看護婦・姫草ユリ子の行動は今回の事件の母親と多くの共通点があるように思われるのです。この看護婦は普段はまじめに働くし気立てもよい女性なのですが、わずかな盗癖とすさまじい虚言癖があります。たちが悪いのは、彼女は自分の吐いた嘘を守るために常人では考えられないほどの労力を使って嘘を糊塗することです。そのため、周囲の人間には彼女がそこまでに大規模な嘘をつく必然性がわからず、結果、彼女の嘘の中に生活することになってしまいます。
こういったパラノイア的要素は今回の加害者にも見られ、奥尻島を出奔する際の自殺未遂の虚言や、二十年前の自分の子供が行方不明になったときにカメラの前で行った愁嘆場など、人生のいたるところに嘘によって縫合された箇所が見えてきます。
「嘘の橋の上を渡る生き方」と単純にこれらの女性を位置づけることもできるでしょうが、私はもっと恐ろしいことを考えます。それは二人の女性とも日常生活ではこれ以上ないほど気が利き、周囲の人からの評判もいいということです。これを「仮面の姿」「嘘で塗り固めている」ということもできるでしょうが、これも全て真実の姿であると私は考えます。彼女たちは確かに親切であり、情に厚いのです。ジキルとハイドのような裏表の理論でこのような凶行に及んだのではなく、自分の人格を過大に伸展しようとして破綻をきたしたものだと考えます。つまるところは自分に対する評価が過剰すぎ、伸びきったチーズのようになった自我の撓み(たわみ)を繕うために嘘が必要になったのではないかと考えるのです。そしてその撓み(たわみ)の幅が常人より長く、また撓みに対する自覚が常人より欠如していたのではないでしょうか?そう考えると彼女たちにとっての嘘とは、われわれが自覚するほどに重い“嘘”なのでしょうか?「嘘に対する自覚がないということは善悪に対する自覚とはまた別の次元でありながら、さりとてこの欠如より恐ろしきものはなし」と考える次第であります。