にしんそばについて

私は蕎麦屋に行くと、必ずといっていいほどにしんそばをたのみます。
ざる蕎麦はうちの親父が打つものがそこそこ美味いので、店に行ってあえて金を払いたくないので食べません。なぜ、にしんそばならOKかといえば、ぶっちゃけ蕎麦よりにしんが食べたいからです。
先日、近江坂本にある鶴喜(つるき)*1で食べたにしんそばはそこそこイケマシタね。ランク的には私の中で筆頭に位置する奈良の観(かん)の次ぐらいにランクしていいでしょう。にしんそば発祥の地である松葉(まつば)*2のランクは私の中ではこの二店より下がります。
なぜかようなまでに私がにしんそばを愛するかといえば、それは醜いからです。墨のような形状をしたニシンが茶色く清んだ蕎麦汁の中に存在する。その姿は一定の調和を保っています。しかしいったん食べ始めるや、にしんの身がほぐされ、一連になった骨がむき出しになり、油脂が液内にだくだくと広がっていきます。死してなおギラギラとあがき、光るにしんの皮を見るたびに、食べている最中でも「自分はなんて醜いものを食べているんだろう」という気分になります。しかし堪らなく美味い。考えてみれば美味いものはどこかにグロテスクな要素をはらんでいるものです。いや、グロテスクでありながらなお愛好される。それは見た目を超越した美味さの故といえましょう。
これからも蕎麦屋に行けばにしんそばを頼み続けます。その美しくなりようがない姿にこそ真の美味しさが潜んでいることを知っているから。

*1:小林秀雄が「無常といふ事」で触れた蕎麦屋

*2:地方都市Kの南座地下にある蕎麦屋