虫を殺せぬようなやつでも人は殺す

ええっと、山口県上関町の祖母の家に行って来たのですが、祖母の島で殺人事件があったらしくてエライコトニなっていました。なんでも、高校一年生が祖父の度々の説教に堪えかね、殺したそうです。
こういう少年犯罪に関して寄せられる識者の声の多くに「最近の子供はキレやすい」というものがあります。しかし私の見解は逆です。
「最近の子供はキレにくい。いや、キレ方を教えてもらっていない」
今回のケースでも少年が祖父に逆らったのは只一回、彼を殺すときのみです。それまでは口答えせずに我慢していました。これは「キレやすい」人間のとる態度ではありません。逆です。しかし多くの人々が最終手段として殺人に走る行為を「短絡的」「キレやすい」という言葉を使って表現します。しかし私は逆に考えます。「こらえる回数分はキレてもいいのではないか」と。
人間は攻撃的動物です。外側に攻撃的な人間は相手を攻め、内側に攻撃的な人間は自分を責めます。何者をも攻めずに、責めずに生きていける人間などこの世にはいやしない。おとなしい人間は外部に攻撃的でないだけで、己の内側のどこかには矛先を向けているのです。そう考えると「キレる」と「我慢する」は表裏一体、鏡のような関係であります。
しかるに現在の日本では「我慢する」に美徳がおかれすぎているような気がします。わたしなんかは過度の我慢は「キレる」以上の害悪である、と考えているのに、です。人々は「我慢」「忍従」を父祖以来の美徳と捉え、それを行う。確かに我慢は大切です、ですが同じように自分の意見を発露する。それが愚にも付かない、徒手空拳のものであってもかまわず吐き出す。そういった「キレる」行為をある意味軽視しているのではないでしょうか。
「キレる」ことはある意味主張することです。外部に向かって自分の欲求を訴えかける行為です。これが未熟で、格好の悪い状態だから「キレる」という蔑称で呼ばれるわけで、洗練され、スタイリッシュで、相手に有無を言わさず納得させることができれば「交渉術」「弁論術」へと進化しうるのです。「キレる」はその前段階、幼いながらも進化の過程の表現なのです。日本人はこの段階で「弁論」への芽をつむいでしまい、「我慢」という接木をしてしまう。そのくせ議論をするときには往々に感情論を優先させる。「キレる」と正面から向き合うことや、その社交性、進化の可能性をつむいでいるからではないでしょうか。
この少年も「キレる」方法を学ぶべきだったと私は考えます。少なくとも祖父に口答えし、反抗し、常時わめきたてていれば親元に戻れたでしょうし、今回のような犯罪が起こることも無かったと思います。大変「我慢強い」子だったのだと思います。しかし「我慢」も「キレる」と同じく悪徳になりうる。それだけでは人は生きていけないのです。
格好悪くても、幼稚に見えてもいい。とにかく「キレ」て「わめいて」みる。そうした行動に出る幼児や少年に対し、親や社会は適切な、スタイリッシュな、自分の要求を通す「キレ方」、すなわち交渉術を「キレる」という行為を媒介に、教本にして教えていく必要があるのではないでしょうか。「我慢」ばかりの芸の無い接木には飽き飽きしています。いろいろな方法を模索することが必要なのです。