でもしましょうかね。二周年前日ですし。
ネットは広い。ちゅうことは草薙素子さんも言っておりますし、私が言わなくてもなんだ今更。という感はあります。
しかし、広いということがそれだけリベラルであったり、許容範囲が広かったり、諸子百家の雑多な意見が公平に扱われるパラダイスと=(イコール)かといわれれば、はなはだ疑問です。この世界は存外狭い。それは人間の狭さと同じ。
たとえばこのはてブの横に掲示されている「痛いニュース」。ここで典型的に見られる議論は大体が進展しないものか、弱いもの苛めですね。ここで言う「弱いもの」とは社会的弱者ではなく、権力者だろうがマスコミだろうが、「叩かれる弱みを見せてしまった人たち」を指します。
で、この弱いものを、さも権力や悪政の象徴であるかのように扱い、叩く。それはそれでいいのです。まあ、良くないけどさ。でも叩いた後に代案を出したり、叩くことによって何が得られるか、誰に何をもたらすかを考えなければ、それはやっぱり「弱いもの苛め」なんだろうなぁ。少なくとも「自分は批判する権利がある人間」「相手は批判される悪者」という思い込みに立脚した行動だと思います。
マスコミも情報操作だなんだと散々叩かれてますが、あの人たちは少なくとも顔を見せている。ある意味十字架に架かっているのです。でも不特定多数で意見だけ言って去ることができる我々は十字架に架かっていない。少なくともそこからホイホイ逃げ出せる。やっぱり「当事者」じゃないのです。ゴルゴダの丘に登る覚悟はないし、ひょっとして石を投げる覚悟すらないかもしれない。でも、口は出す。
それでもいいのです。それがネットの強み。だけど、そんなあなたは何者でもない。叩くものでも、叩かれるものでもない。それは自由だけど、ただ自由なだけであって、そこにたぶん、価値はない。
そう考えるとネットも我々の社会の縮図です。「悪いとされるもの」を叩き、「良いとされるもの」を褒める。その論調を作る流れ。それに迎合する流れ、そういったものは現実となんら変わらない。ではネットの「広さ」を実感し、この擬似世界を実りあるものとするには何が必要なのでしょう。私はそれを「検索能力」だと考えます。
ネットの世界は広い。しかし意見の趨勢は現実の縮図です。それは同じ人間だからしょうがない。でも少数者の意見や真摯な意見も消されずに残っている。それがこの世界。自分の生きる心情、哲学、価値観、そういったものをベースとしてひとつの物事に対する検索をかける。自分の価値観を言葉に打ち込み、検索する。そうすることで自分の意見に近い人間、ないしは思っても見ないような意見を持つ人間と出会えるかもしれない。
その結びつきは歪んでいるかもしれません。検索をかける人間の思い込み、偏見、自意識。そういったものが反映される。人は自分の意見に近いものを愛するのですから。しかし、その「偏り」こそが「人間」です。叩くべき、ないしは叩かれてしかるべき相手をどこかから見つけてきて一斉に叩くのは安心ですが群れる「獣」です。誰からも理解される「獣」よりも誰にも理解されない「人間」でありたい。と私は思います。
そういった偏りを、どうしようもなく生じる差異を共有できる人間。それも現実世界では到底出会えないような地位、場所、世代にいる人間と心情で、偏りで繋がれる意外性。そういうものがネットの広さなんじゃないかなぁ。と。
ま、ようするに友達を作る幅が広がったんですな、この世界で。それだけ。