事故啓発

最近考えていることがあります。
宇宙の始原はいつなのか、人類の価値は何なのか、何故日本人はいまだにハラキリが好きなのか、ワトソン君とホームズはワトソン×ホームズなのか、ホームズ×ワトソンなのか、マイクロフトもこの関係の中に代入できるのか、*1ゾロアスター教の信者は増えているのか、減っているのか。山田うどんのネーミングはヤマダノカガシから来ているのか。
考えることはいっぱいです。そんな中でも特に考えるのは「創作と模倣」についてです。私は純粋なる「創作」(クリエイション)は神のみのなせる技であると考えています。人類は所詮神の似姿、その創作も自然と類似品になるのです。
ここまでは誰でも了承していただけると思います。ここからが問題「何故我々は模倣することに対して後ろめたさを持たないといけないのか」ということです。
例えばその模倣が法律違反であったり、明らかなズルによって人の権利を奪ってなされたものなら、批判の対象となるもやむなしです。しかし、そうでない模倣。
「ジャンプが特殊能力を持ったヒーローバトルに終始するのは荒木飛呂彦の模倣だ」
「特殊能力といえばすでに伊賀の影丸横山光輝がやっているではないか」
「元はといえば忍術バトルは山田風太郎の模倣だ」
という、ある程度普遍的な模倣に対して我々はどう向き合えばよいのか。考えます。
そもそも近代以前の日本人に模倣、パクリの意識があったのか、謎です。劇作家や浄瑠璃作家は現実の事件(赤穂浪士の討ち入り、伊勢古市の殺人事件、田沼意知暗殺事件、心中事件エトセトラ)やら、過去の古典(源氏物語太平記)からネタを平気でスッパ抜いてきます。確かに著作権は切れているでしょうが、ここらへんの模倣に対する罪の意識は現代人より希薄であったかと思われます。著作権の保護団体もいないしね。
私なんか、現実の事件をそのままネタにするなんて、死んだ人や関係者が怖くてできませんが。いい意味でも悪い意味でも「人権」のカタチが違ったんでしょうね。
で、そうなってくると気になるのがキャラクター小説、群像小説の走り滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」となりますね。こちらは先に述べたタイプとは少し趣が違います。現実の事件を採用しているのですが、年代は十五世紀です。室町から戦国の過渡期、太田持資(道灌)が初代江戸城を造ってたり、北条早雲が活躍してたころの話ですね。
しかしこの歴史モノもパクリの要素が多々あります。中国の小説ですね。
群像劇的なところや、歴史上の実在の人物とフィクションの人物を絡ませるところは「水滸伝」から、シーンの一部は「三国志演義」などからパクッております。
もうこうなってくると「パクリ」という近代人の概念、言葉を過去の創作に当てはめるのは筋違いのような気もしてきました。ではどういえばいいのでしょう、また、何故往古の人々は平然と他者の創作を換骨奪胎できたのでしょう。私はその原因を「注釈」に求めます。
そう、多くの創作は「注釈」より生じ、「異本」「異説」によって羽ばたいた、「如是我聞」の創造物だと。
そして「典拠」に対する「解釈」こそが創作の「源流」だと。
明日に続く。

*1:今考えるとマイクロフトってマイクロソフトに似てるな