年の暮れ

年の暮れです。皆さんいかがお過ごしですか。
ここのところブログも滞りがちですが、私は元気。歩くの大好き、どんどん行こう。「そっちは東尋坊だよ」
とまあ、希望と崖っぷちを織り交ぜてみました。
来年で平成は20年の大台に乗ります。平成生まれもはたちです。昭和は遠くなりにけり。昭和ぎりぎりに生まれた私としても感慨深く、また月日の進捗の速さを思い知らされます。
昔、私は信じていました。はたちになったら大人になるのだと。そして、それまでの世界は一変し、「オトナ」としての脳みそとオトナとしての体を持った生物に生まれ変わるのだと。信じていました。
これと同じような思いは21世紀にもいだいていました。21世紀の1:00になったとたんに町はヴェールをかけたようにメタリックな外観へと姿を変え、どこからともなくロボットが現れ、我々は宇宙服を着ている。そんなことを信じていました。けっこう本気で。
でも、はたちも21世紀も、何の感慨も、断絶も、飛躍もなく、それまでの延長としてそこに来ました。
昔抱いていた、そしてそのときが来るまでおぼろげながら信じていた「急激な変化」はついぞ自分に訪れることはなかったのです。どちらの節目にも自分は自分のままでした。
でも、そのお陰か否か、分かり始めてきたことがあります。私が生まれてから与えられた服、食べ物、家、プレゼントエトセトラ。その他私の人生を通り過ぎていった加工物たち。昔の私はこういったものたちも突然、私と違ったスキルをもつ人間によって生み出されたものだと信じていました。しかし、自分が一人で暮らし、組織に属したり、自炊をするようになって徐々にですがこれらの加工物、ないしはイベントの骨組みが見えてきたのです。それは頑張れば自分にでも作れる、手に届くものでした。決して異世界からやってきたものではなかった。
「構造」というものがおぼろげながら見えてきたのです。進化するのではなく、深化していくのだという事が、分かってきたのです。
突然の変化を待つことは、今ではだいぶ少なくなりました。それよりも処々の人間が日々積み重ねる営為という「やぐら」こそが自分とって意味を持ってきたからです。
しくみが見えて、幻想がなくなる。夢が消えて、現実が現れる。
そういう意味では少しは「オトナ」になったのかもしれませんね。気のせいかもだけど。