2011-11-25

09:09
やる男応天門を書いてるうちに段々と嵯峨が篁を、篁が嵯峨にイラつく部分について理解できるようになってきた。嵯峨にとって文学は人と繋がる「ツール」であるのに対して、篁にとって文学は個人的な感情を吐露する「意志のあらわれ」なんだろうな。

09:11
篁からすれば嵯峨は不純だし、嵯峨からすれば篁は自分勝手なんだろうな。この相違ばかりはどうしようもない。

09:22
オヤジ(小野峯守)とか、淳和帝とか、冬嗣とか安世が嵯峨に愛想を振りまく詩作ばかりで、作家性がないことにもイライラしたんだろうなぁ。そういうことさせて喜んでいる嵯峨にも。

09:27
勅撰集に篁の詩作が少なかったり、現代に残る詩作が少ないのも、ここらへんの嵯峨文壇におもねらない篁の心性が影響しているように思う。

09:30
でも、篁が詩を始めたのは、嵯峨がハッパをかけたからだから、なんともかんとも。やっぱりどこかで篁は嵯峨に甘えているんだな。

15:08
物語を作るときに順列で細かく語ろうとする癖をなんとかしたい。物語とはすべからく「途中からはじまるもの」だというのに。


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