「咲-Saki-」の先進性について ―フレームバトルという概念―

どうもです。
実は私、mantrapriは漢詩を少々やっておりましてですね、そんな時、ふと思ったのです。
漢詩と麻雀って共通点多いな、と。
2、3区切りであること、平仄、通韻など、役を作る為の縛りがあること、牌をそろえるように詞を集めていくことなどなど。
なので、麻雀に近い楽しみ方で漢詩のルールを覚えられる「漢詩麻雀」なるものが作れれば、漢詩がもっと身近なものになるかもと思い、まったく不案内なのですが、麻雀を勉強することにしました。

――「咲-Saki-」を、使って。*1

で、全巻を読んで、この漫画がまったく新しいバトル形式で描かれていることに気づいたのですね。そう、この漫画には、「フレームバトル」とでもいうべきシステムによって貫かれているのです。今回はこの先進性について、話してみたいと思います。

まず、フレームバトルとは何か、ということを説明します。咲-Saki-というマンガは基本、先鋒から大将の五人試合で展開します。点数は持ち越され、大将戦後の点数で勝敗が決定します。それだけなら、よくあるトーナメント戦マンガと同じですが、咲の独創的な部分は、以下の三点。

  1. 先鋒〜大将のオーダーは変更なしで固定
  2. それぞれのキャラのファイトスタイルを固定
  3. ファイトスタイルに対する相手の反応で敵キャラの個性を描く

この漫画、主人公チームのオーダは固定されています。これによって、次の試合、その次の試合で、前回のバトルとの比較がしやすくなります。
さらに主人公チームの五人にはそれぞれ。特殊技能というか、戦闘スタイルがあり、卓を囲む残り三チームの三人も、その能力と対比、反応するような能力をもつキャラとして描かれます。
こういう構造は既存の少年漫画にも共通します。しかし咲の面白いところは、主人公チームの特殊技能が「場」に対して作用するということです。

そう、咲というマンガは主人公たちのファイトスタイル(フレーム)を通して、残り三人の個性を、翻っては主人公たちを浮かび上がらせるのです。

先鋒・片岡優希・・・前半戦でのスパート、後半戦での減速
次鋒・染谷まこ・・・場全体の形、流れ、雰囲気を読む。
中堅・竹井久・・・悪手、行儀の悪い打ち方、オカルト肯定(奇)
副将・原村和・・・コンピューター麻雀、オカルト否定、空気が読めない(正)
大将・宮永咲・・・場を囲む全員が底上げされる、オカルト「越え」

この戦闘スタイルに対比するようにそれぞれの敵チームが描かれ、それも1対1のバトルではなく、四人バトルなので、戦闘スタイルへの対応や複線の張り方、発動の仕方は千差万別になるわけです。
これは既存の麻雀マンガでもそうなのでしょうが、咲-saki-の場合はオーダーを固定して、同じ順番でそれぞれのファイトスタイルを一貫して見せ続ける「フレーム」があるので、その効果とキャラの個性、役割付けの効果は倍増しされます。
さらに、敵チーム、味方チームとも試合選手以外は、モニターで全部の手牌が見れるので、それに対するコメントが、試合していない人間にもでき、そこで各キャラが敵味方問わず解説役となり、キャラの個性と、フレームを強化していく。
さらにこの「フレーム」が面白いのは、大将へと場が進むにしたがって、「勘」や「流れ」がどんどんオカルト濃度が高いものへ、つまり「魔」が場を支配するようになっていく。
先鋒、次鋒、中堅までは比較的大人しい魔が、副将、大将戦で牙をむいてくるのです。

副将の和はコンピューター麻雀によって魔を無視することはできますが、「魔がある」ということを認識して、それと戦うことはできません。だから全国大会二回戦では魔を認識できる三人の蚊帳の外に置かれてしまいます。

そして大将の咲は自身が最大の「魔」でありながら、魔をうち倒し、場を通常の世界へと戻す役割を持ちます。

たとえば天江衣戦では、咲含む三人で協力し、魔の空間を打ち消して皆で打つ麻雀空間へと、回帰させる。
全国大会二回戦では、北と南の魔に囲まれながら、それを打ち倒し、あまつさえ凡人代表の姫松高校の末原を「もっとも強い人が残ってしまった、次は勝てません」と一番評価する。
この作品における「魔」とは、己でない「慮外の力」によって麻雀を打つこと、打たされること。咲は自身がその力の持ち主でありながら、結果その力に支配された場を「否定」し、「皆で楽しむ」戦いを、する。

それが点差0で進む力、場をイーブンにするという咲の、「魔」にして「和」(わ)の力、なのだと、思います。

咲という物語において主人公たちはフレーム。オーダーの変更がなく、順列に物語が進むことで、同キャラの次回戦が、前回のパターンを踏まえているか、外すか、正か奇かという「読み」の楽しみにもつながってきます。

主人公たちが各々別のフレームを持つことによって、同じ麻雀漫画でありながら、試合ごとに全く違う景色が広がる。

正攻法のバトルか、オカルトバトルか、ノンオカルトバトルか、オカルトバトルの中に独りだけ正攻法か、オカルトバトルをみんなで「越えて」いくバトルか?

試合が繰り出され、何重にもそれぞれのバトルが重なるにつれて、フレームの中で、裏を見せ、新しい展開を呼び、さまざまなテクニックが駆使され、蓄積されていく。
この「フレームバトル」の概念の創出、まったく見事としか言いようがありません。

テニプリやこの作品のように、勝敗による順列ではなく、「場」によってキャラクターを深化させることに注力する漫画こそ、まったく新しい、これからのスタイル。こんな新しいシステムの漫画が、もっともっと、増えてほしい。

*1:何故、咲か。まあ、ぶっちゃけると、かんむりとかげさんの同人誌があんまりにも素晴らしかったの原作が読みたくなった