マッドギャランに捧ぐ

人の作品を批評し、献辞を捧げることは人への第一歩でありかつひとでなしへの第一歩です。タイトルにありますように私は『巨獣特捜ジャスピオン』における敵役・マッドギャランを敬愛し、おしげない献辞を捧げます。しかしそれはマッドギャランを演じた春田純一氏に対してだけに贈るものではなく、それを創造した上原正三に贈るものでもなく、マッドギャランという架空の存在に対して贈られるものです。つまりは生者から生者への贈答ではなく、生者から人外に対して贈られる、しかも作中でも既に死した死せる人外へと贈るものなのです。
これを過度に行うことは精神衛生上あまりよくない気がします。人は自分を愛することからはじめ、人を愛していきます。今はどちらも嫌うていても、生命の当初から自分を否定して産まれ得るはずがありません。自己愛、他者への愛、そして他者の産み出したものへの愛。愛はどんどん広がり続け、当初は思いもしなかった遠くへと私を運んでくれました。しかしヒトデナシへの愛は報われない結果に終わることしばし。反応として帰ってこないものへの献辞も信仰もマスターベーションの延長へと惰する危険を孕んでいます。そしてしばしば報われぬ自分を切り売りし、自身をも人外へ導く結果となります。
それでも空想、妄想を愛し、そこに道をつけていこうとするなら、果てには何が見えるのでしょうか。人間のフロンティアへ最前線へリメスへ向かっているのか?それとも悠久の昔から存在する谷底への道を先人たちの経験より懲りず、ふらふら歩んでいるだけか。我々は進んでいるのか引いているのか登っているのか下がっているのか?
まあ、いずれにしても愛というものは自己に制御できぬもの。それでこそ愛。堅苦しいことは抜きにしてどちらへともゆるゆるながれていきますよ。
「人間地獄の涯までも 越えてみせるさかろやかに」です。