詰襟をしていたころのはなし

僕にとってこの話は、小説ではなく現実である。この小説の舞台はおそらくS玉県K部市。高校三年間を僕が過ごした場所、部活は演劇部であった。こちらも同じく、たった一人の。

スキップ (新潮文庫)

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細かいあらすじについては僕が触れなくてもよいだろう。読めばわかるから。だから僕の現実を中心にここでは話してみたい。主人公の真理子は高校の国語教師、そして演劇部顧問に“なってしまった”十七歳。彼女は自分のやり方で自分の居場所を作っていくのだが、その姿は演劇を思わせる。しかしここでの演劇は自主的に演じるものではなく、極めて強制的に演じさせられるタイプの演劇なのだ。彼女は十七歳の記憶を持ったまま、突然三十五年後の未来へと意識だけタイムスリップしてしまった。記憶の異邦人である。彼女には家庭があり、教師と言う職業があった。見も知らぬ未来へ飛ばされ、自分一人だけで周囲に順応していくさまはまさに演劇のそれである。彼女が受け持つ演劇部の部員も当初は一人だった。このことは翻って彼女が二十五年後の異国で一人“演じる”ことの投影となっている。
しかし彼女は逆境にもめげず、彼女の感性を生かしたまま四十二歳を演じていく。いや、馴らしていく。その姿は必然でも、諦観でも、ひらきなおりでもなく、確かにそこに“ある”といえるほど自然なものだ。
だからこそこの作品はズシンと僕の胸を打つ。私は演劇部であった。たった一人の部員だったこともある。作中の“箱入り娘”里美はやせと同じだ。部員勧誘のパフォーマンスも似ているが、私には彼女のような積極性や凛とした美しさは無かった。そんな私を支え、三年間演劇をやらせてくれたのが顧問の国語教師O先生だった。彼女は短髪に青い白衣でいつもビッと背筋を伸ばしていた。すこし男っぽいハッキリとした口調がそれによく似合う人だった。先生は担任にこそなったことはないものの、一緒に本の読み合わせをしたり、図書室で共にだべったりと公私共にお世話になった。僕の感性を認めてくれ、同じ視線に立って評価し、意見を述べてくれた最高の恩師である。
二年生のとき部員が辞めて僕は一人になった。この部活をたたみ、自分も新しい道を摸索しようかと考えていたとき、先生は何食わぬ顔でやってきた。そしてあれよあれよという間に来年の事や、自分のクラスの人間を手伝わせる段取りだとかを整えてしまった。辞められるわけがない。自分なりの決死の勧誘が実を結び、新入部員が入部。僕は三年間を演劇部員として暮らす事が出来た。こんなエピソードから、生徒の思いを大切にし、日々の生活や言葉が持つ意味を大切にするO先生と真理子が僕の中では強く重なる。
あれから数年経つ。今ではすっかり演劇から離れてしまい、先生も他校に赴任されて年に一回会うか会わないかになってしまった。僕は元来過去は振り向かないし、現在と比較しての賛美もしない。今が最善であると思っているから。でもこの小説を読んだときに高校時代の自分が、演劇を行う自分が語りかけてきた。そして不覚にも少し立ち止まってしまった。だから、僕はこの話を“小説”ととらえる事はできない。これは現実である。僕の過去である。
O先生の言葉を最期に紹介したい。不詳の弟子として。

「真、善、美のうちでどれかを選べといわれたら美を選ぶね。ほかは絶対視できないから」

…これで合ってたかな?O先生。まあ「伝承とは、こういうものだ。事実は人を介する度に身勝手に形を変えて行くのだ」(スキップ264ページより)