周防周遊2

さっきの続き。
瑠璃光寺を見た後は母親の運転です。それまでは私が運転していたのです。まあ、私が如何様に車を運転するようになったかはこれから連載していく「コンバット越前」を見ていただければわかると思います。とにかく私のようなアパパでも運転はできるのですよ。がはがはは。
そうこうしている間に次の目的地・小郡(おごおり)です。小さいころはおごおりと聞くとカキ氷のような気がして「おいしそお」と、思っていたのですか。すっかり擦れた大人になった現在では「シロップは栂ノ尾茶の抹茶で練乳、小豆入りでなきゃあな」などと思ってしまいます。ゼータクでし。さて、その小郡ですが、行った番地は陶(すえ)です。毛利元就マニアや山口県在住者ならこの地名を見てピンとするかもしれません。ハイ。毛利元就厳島の合戦で戦い、敗死した陶晴賢(すえはるかた)*1の名字の元となった場所です。陶氏は大内氏の分流で、守護代として室町、戦国期を通じて活躍します。この陶という地名の語源となったのは須恵器という古代の焼き物で、これの生産地であったためこの名前がついたと考えられます。その釜跡が山奥に残っているというので言うのでえっちらえっちら行ってきました。

これがそうです。七世紀の登り窯の上部がそのまま残っていたらしく、噴出孔がそのまま残っています。焼き物の名産地である益子に行って窯跡を見学したことがあるのですが登り窯の姿は古代も今もほとんど変わっていませんね。
さて、蚊や蜘蛛にバリバリやられながら次に向かったのが鋳銭司(すぜんじ)です。陶からそれほど離れていないここは名前の示すごとく律令国家の鋳銭所でした。山城や筑紫にもこの施設はあるのですが最後まで残ったのがここ、周防の鋳銭司です。またここは日本陸軍の父・大村益次郎(おおむらますじろう)の出身地でもあります。靖国神社のまん前に巨大な銅像が建っているので知っている人もいると思います。ただし、彼の墓は東京の九段ではなく、故郷であるこの地にあるのです。

大村益次郎は陸軍の父であるとともに、それを支える近代科学の学び手でもありました。私が少し前に触れた宇和島の伊達藩において彼は日本最初の蒸気船を開発します。また上野における彰義隊との戦いの際、大砲を使用して鎮圧しました。古代の最新技術であった火を使った鋳造業。その担い手であったこの鋳銭司一帯は、化学兵器の申し子・大村益次郎を育む土壌を備えていたわけですね。人やモノはやはり土地の属性にシバラレルモノでしょうなぁ。それを呪いと取るか、祝いと取るかは両義的なものなのでなんともはや。と、おもったら首相が靖国参拝してる。大村益次郎銅像の横を通ったわけで、奇遇ですね。まあ、私は仏教徒なので神社のことは関係ありません。少なくとも神仏分離した後に作った神社とは宗旨が違いますのでご勝手に。
戦争になって人を殺し、殺されても近代の、土地と切り離された神社でみんなと仲良くしたくはありません。ま、古代でも“土着の神”と純粋に考えられる神はあんまないけどね。でも土地固有の祭り方に変容はしたろうし、そういったものを切り離した遠い世界には私、所属できません。ひとは故郷を捨ててもどこかパトリオットなものなのです。それを呪いというか、祝いというかはともかく、そこから離れたところに“死後”はあるのかなぁ・・・。
ああ、まあそんなこと考えたのは帰った後、ニュースを見てからなのです。そのときは「マス・大村*2蛸に似てるなぁ」とかしか考えてませんでした。母親も祖母も私の脳内電波を察したらしく、その日の夕食も次の日のそれもでした。

*1:大河ドラマ毛利元就では私が好きな俳優・陣内孝則が演じた。彼の大河での役は佐々木道誉とか私のツボをつくものばかり

*2:私がかってにつけた大村益次郎のあだ名