嫌いだというきらいがある

「命をそまつにするやつはだいっきらいだ」「お好み焼きを和製ピザというやつはだいっきらいだ」「名古屋県や横浜県というやつはだいっきらいだ」「ハサミムシで毒をつくろうとするやつはだいっきらいだ」「ハンニバルと聞いてハハンニバル・ゲンを思い出すやつはだいっきらいだ」「アンパンマンワールドがジャムおじさん征服王朝というやつはだいっきらいだ」「ヤマトタケシをウルトラマン80の専売と・・・」
嫌いなものが多すぎる。かように我が侭な私をお許し下さい、誰か。光あるところかならず闇あり。いや、闇あるから光あり。前後を取り違えるのは天動説の世界です。欲望や希望は闇あっての賜(たまもの)。弘法大師がいうように我々は冥きとこからやって来て、冥きとこへ戻るのみ。光を善とするのがそもそもの間違いかもしれませんね。我々が知覚する光は所詮闇の亜種にすぎないのですから。嫌うことを愛する。差別、分別を愛する。それなくしては自覚的に行動することはできないと考えます。“判断する”とはハナから拒絶することではなく、一旦口に含んで吐き出すか、吐き出さないか決めることではないかと。