コンバット加賀4および越前

一時間後にやってきた電車に乗り、ようやく加賀温泉駅に。この地は山中温泉山代温泉粟津温泉片山津温泉と加賀の温泉どころが一同に会する駅でありまして、裏山には巨大な観音が鎮座しているというオマケ付です。以前(といってもに2年前)に友人のアッキーや宇多源氏、金剛神氏と訪れた事があり、そのときは山代温泉に向かったのです。しかし今回の目的地は橋立(はしだて)のみ。北前船主最大の拠点であり、住民の高額所得から、明治時代には日本一の富豪村とよばれたこの地を訪れなければ北前船を語る事あたわず!!
・・・などと意気込んでみたものの、今度はバスが来ない!!ここでも四十分待ちで、目的地の橋立に着いたころにはすっかり日が傾いていました。ああ、遠くに見える白山*1も霞んでいる。黄昏時の橋立集落。そこは普通の漁村と変わらない静寂に満ちています。しかし、家が軒並み立派です。富豪村の名前も伊達ではありません。まずは北前船の里資料館です。
ここは北前船主・酒谷家の家屋で明治七年に建てられたものです。総敷地面積が975坪というすごい大きさです。中央の三十畳の大広間を中心に、各部屋に北前船の資料が所狭しと展示されています。船箪笥(ふなだんす)などはその中でも興味深いもので、船の中で使用する金庫として衝撃に強く、勝手に開けることができない防犯性など、日本における金庫の先駆けとも言えるものです。また西欧や中国から伝来した遠眼鏡や磁石も、北前船において改良されて使われています。遠洋に漕ぎ出さず、常に陸を見て航行する北前船にとって、方角の手がかりとなる遠眼鏡と磁石は欠かせないものでした。かように北前船は当時最先端のテクノロジーを駆使しており、来る貿易社会の先駆けとなる素地を有していたのです。
で、次に訪れたのが北前船主屋敷・蔵六園です。江戸末期に立てられた北前船主の屋敷で、様々な展示品や各地から集めた石を使って作った庭園が見所です。中のおばちゃんが抹茶とお菓子を出してくれます。お庭を見ながらもさもさと戴きました。この橋立地区一帯は国の伝統建造物保存地区(略して伝建地区)に指定されておりまして、町並みも綺麗に保存されています。北前船主の大半は明治以降は別種の商売に変わり、北前船の伝統は途絶えてしまいました。個人が己の才覚を頼みに広い海に漕ぎ出した日本の(大)航海時代は、電信の発達や技術の進歩によって幕を閉じたのです。黄昏時に沈む橋立を見ると、その息吹がつい昨日のように感じられる次第でアリマす。
日がすっかり沈んだ5時過ぎに終バスがやってきました。乗りこんで加賀温泉駅に戻ろうとしたところ重大なことに気付きました。
加賀温泉なのにひとつも温泉に入っていない!!」
思い立ったら矢も盾もたまらず、途中の片山津温泉で下車。一風呂浴びました。加州(加賀のこと)の温泉は山代、片山津とも無色透明ながら、血行を促進する事恐るべき程です。入るたびに体がカッカします。でカッカした体のまま駅まで七キロ程歩く羽目に。十kgはあるボストンバックを抱えながらとぼとぼとぼとぼ。道は真っ暗です。加賀温泉駅前の巨大な観音がライトアップされている事が唯一の目印でした。そんなこんなで、駅に着いたころにはすっかり湯冷めしておりましたとさ、間抜け。
帰りの北陸本線大聖寺駅を越えると、私が交通戦争を繰り広げた越前に入りました。
「越前。なにもかもなつかしい」
と沖田艦長まがいの言葉も出ようというものです。しかしその時の私の風体はワンカップ片手にグビグビやっていたので、沖田十三(CV納谷悟朗)というよりは船医の佐渡酒造(CV永井一郎)なのでした。
第一部・

*1:福井、石川のシンボルとも言うべき山。奈良時代の僧・泰澄による白山信仰で有名