コンバット加賀(もとい千二百年前は越前)3

金沢駅に急いで向かったものの、電車がナイ!!加賀温泉駅までの電車は一時間後だそうで、大幅なロスタイムとなってしまった。無念。鉄道網における東海道との圧倒的な差を思い知らされた次第です。
そう、近代において北陸道東海道に敗れたのはひとえに鉄道網が充実していなかった事に他ならない。冬場は雪によって閉ざされる極寒の地・北陸は鉄道にとっての大敵なのである。しかし、近代以前から北陸には優れた交通網が発達していた。それが北前船(きたまえぶね)である。
北前船とは江戸時代後期から明治前期にかけて発達した貿易船の事である。この船の特徴的な点は船主自体が貿易の主体という事であり、頼まれた品を運搬するのではなく、自分の才覚で品物を買い付け、それを転売するのである。これを「買積み廻船」といいます。また廻船という名前にあるように、この船は春に大阪を出て、そこからぐるっと瀬戸内海を廻り湾口で品物を買い付けながら日本海沿いに北上します。そして蝦夷地において大阪や瀬戸内海で買いつけた商品を売り、逆に蝦夷の名産であるニシンやコンブを購入するのです。その後は来た道を逆走(たまに太平洋沿いに江戸に向かうコースもある)し、今度は蝦夷地の品を瀬戸内海の港に売りつけつつ、冬までに大阪へと戻ります。
このように遠隔地での利潤の差額を生かした貿易が北前船であり、環日本的な貿易網を持つ一大ネットワークでもあるのです。すごいでしょう。ちなみに現在我々が正月にニシンのコンブ巻やかずのこを食するのも、この北前船貿易によって蝦夷地の特産品が持ちこまれたから他なりません。また京都でにしんそばが誕生したり、大阪にコンブの加工業者が多いのも北前船貿易がこれらの都市と密接に結びついていたからなのです。
http://d.hatena.ne.jp/mantrapri/20060717
で、今回の旅の目的は高岡・瑞龍寺や色絵雉香炉を見る事と同時に、そんな華々しい北前船貿易の跡地を巡ることにあったのです。実はコンバット越中のときに触れた伏木(ふしき)も北前船貿易の拠点の一つだったのですが、正月休みで資料館や船主屋敷が開いていなかったのです。そこで加賀の橋立(はしだて)に全ての希望をかけていたのに・・・電車が、来っナーイ!!
しょうがないので安宅駅まで行きました。ここは十二月のブログでも少し触れた勧進帳の舞台となった場所です。ここも北前船貿易の拠点の一つなのですが、資料館がないし、なんといっても本場は橋立なのでここでは駅構内の蕎麦屋でにしんそばを食いつつ、こらえて待ちました。
結局続く。