「がくえん」って、なに?

まなびストレート11話「わたしにもみえるよ」見ました。見えました。

ということで生徒会書記・稲森光香ことみかんの絵をまずアップ。今回のタイトルになっている「わたしにもみえるよ」のセリフはみかんがまなびに対して言ったものです。まなびの前向きさ、そこから生み出されるビジョン。みかんにはそのどれもが自分にはない、手に入れることができないものと考えていました。しかしまなびと生徒会の活動を行う中で、まなびのビジョンが、描く像が彼女にも見えてきたのです。そう、「人は誰でもまなびになれる」のです。そして「がくえん」って、それが実感できる場所なのではないでしょうか。
まなびストレートで描かれている時代は今から30年後の未来です。この時代、学校の意義は薄れ、通うことが義務ではなくなっています。すぐに社会に出る子供が増えて、若年のうちに職を得、自活する。人類の歴史から言ったら当たり前のことです。「学校に通うことこそが本来の意義である」と主張する気は私もありません。まなびストレート本編でも、学校のプラス面は書かれこそすれ、学校に言っていない若者との対比ははっきりとは行われていません。
では「がくえん」の意義とは何でしょうか?私はそれを「祭」だと感じます。前回述べた「ゆーとぴあ」論と共通するので下に引いておきます。
がくえん「ゆーとぴあ」とは? - マントラプリの生涯原液35度
ここで私はタイトルのがくえんゆーとぴあの「ゆーとぴあ」を「祭」だと位置づけ、その姿は見えないだけで、決してつかめないものではないという趣旨を述べました。私は「がくえん」も広い意味では「祭」に入るのではないかと考えました。
「ゆーとぴあ」論でも述べたように、人の生活は「ハレ」と「ケ」に分けられます。日常生活は「ケ」、祝祭は「ハレ」に分類されます。では、ハレとケの境界線はなんでしょう。それは「労働に対価を求めるか、否か」です。ここでの対価は精神的なものではなく、そのものずばり労働の報酬です。生きるための糧を得られるか、否かです。「ケ」の空間である日常生活では人々は対価を求めて労働します。協力して仕事を行うのも「仲間だから」ではありません。労働効率をアップし、対価を上げるための「チーム」だからです。そこで優先されるのは効率であり、成果であり、努力や友情そのものではありません。目に見えるものが示されなければならないのです。
一方、「ハレ」の空間である祝祭の場においても人々は労働します。しかしこの労働には具体的な対価は支払われません。そこでは人々は祝祭の為に労働が行われるのです。そして「ハレ」の空間とはその事に、果実が得られなくとも喜びを見出せる場なのです。まなびたちの学園祭も対価を求めるものではなく、労働そのものに喜びを見出す「ハレ」の空間なのです。そしてそれは学園生活全体にも言えます。みんな気づかないかもしれないですがここもまた「ハレ」の世界なのです。
「がくえん」にはテストもあります。圧力もあります。社会の縮図です。だけど、社会ではありません。それが大人によって囲われた世界であれども、「対価なき」労働に価値を見出していける空間なのです。しかし、多くの生徒は「対価を支払われない」生活に飽き飽きしていました。そのためまなびストレートの聖桜学園でも、学校をサボり、対価が得られる労働つまり「アルバイト」にいそしむのです。そこで友達を作り、仲間を作る。しかし仕事で結びついた関係にはやはり一定の線引きがありますし、真の友達ができても大きなことをするには人数が少ない。
しかし「がくえん」とそこで行われる行事はおんなじ生徒であるというだけで無条件で全生徒が仲間に加われるのです。たとえそれが一時の間であっても、いや一時の間であるからこそ嫌がおうにも輝きを増します。「がくえん」には社会にはない、取り戻せない「対価なき労働」にいそしめる時間、空間があるのです。
そして、それこそが「まなび時空」と言われるものの本質ではないでしょうか。
今回、久しぶりに「まなび時空」が登場します。それを引き起こしたのは、いや気付かせたのは愛光学園の角沢会長でした。そう、目をつむるだけ。それだけで学園祭を楽しむ皆の歓声が聞こえてくるのです。
学園祭を起こしたのはまなびたち五人。
学園祭を楽しむのは生徒たち。
そしてまなびたちは皆の楽しんでいる様子を目をつむるだけで感じられるのです。
もはや誰が起こしたというものではありません。この場に集う皆が「まなび時空」を起こし、かつ「まなび時空」の中にいるのですから。
学園祭の時だけじゃない。「がくえん」はいつでもだれでも「まなび」になる、「まなび時空」に加わるチャンスがある場所、祝祭空間なのです。
だからがくえんゆーとぴあ まなびストレート!」。



追伸:「がくえんゆーとぴあ まなびストレート!」いよいよ次回で最終回ですね。祝祭が終わった「がくえん」。そして祝祭が終わってもなお「がくえん」自体が祝祭であることに生徒たちは気付くのか。まなびとみかんを中心に、十二話かけて五人が織り上げた「たあたんちぇっく」の模様はどのような色合いを私たちに見せてくれるのか、楽しみです。