政の要は軍事なり

ということで、国防のために、我が身可愛さのためにこんな本を読みました。

君主論 (講談社学術文庫)

君主論 (講談社学術文庫)

冒頭の言葉は、『日本書紀』において天武帝が群臣に向かって述べた言葉です。壬申の乱という肉親相食む戦に勝利した男故に吐ける言葉。政治に関する至言だと私は思います。マキアヴェリ
「それゆえ君主は戦争と軍事組織、軍事訓練以外に目的を持ったり、これら以外の事柄に考慮を払ったり、なにか他の事柄を自らの技能としてはならない。それというのもこれのみが支配する人間に期待される唯一の技能であるからである」
と述べています。東西の一流の軍略家が図らずも同じ結論に達したのは面白いところです。
そう、暴力を我が身に持たない権力は瓦解する。暴力こそが権力の根拠。
腕力がない人間は、ことに男はそれだけで相手に舐められます。事実です。我々は群れです。群れとして生きています。過去ほど腕力がものをいう時代ではなくなったものの、最終的な解決手段として「暴力」が我々の体に温存されている事実を無視して生きることはできません。
権力、政体も平時は漣の如し、凪の如し。しかし非常時には己を高波から守る必要があるのです。しかして、非常時は我々が待ち望んだときにやってくる都合のいいものではありません。いつ牙をむくか分からない。それゆえ暴力は常に保存、整備され、適切に運用されなければならないのです。平和主義者こそが均衡のための暴力を理解しなければなりません。人の善意を信じ、平和を愛する小市民はなおさら、人を憎み、己を愛する自分を理解しなければなりません。国家は駄々っ子です。肥大化したものは必ず原始の形を取ります。卑小な己より、国家が賢いなどと本気で考えられるのですか?
暴力を忘れた人間、いや、忘れたと思い込んでいる人間こそネガポジが転換した時に手ひどい暴力を振るうものです。「平和」とは暴力を忘れて得られるものではなく、暴力を自覚して抑えるものなのです。
「安全」とはニュートラルな状態を指す言葉ではなく、ギアを全開にした末に至る境地であるのです。