ほっと

私は日月を友に、妄想を母として生きています。この生き方を何年も続けてきたので、そのあり方をごく自然としているのですが、まれに不都合な事態も出で来ます。
それは「恐れ」です。例えば今日中にやらねばならないことがあるとします。そんなときに身の回りから遊ぶものを排除し、その課題に集中できるように人はします。しかし、私は、できない。妄想は危機に比例します。危機つまり課題が近づけば近づくほど、自分の中に様々な妄想が膨れ上がって、なぜだか万能感のようなものが湧き上がるのです。そいで課題はほっぽりっぱなし。
このような逃避妄想が己を支配すると、それに引きずられ、世間にも己にも役に立たない妄想劇場を延々と頭の中で繰り広げるという、社会不適合っぷりが遺憾なく発揮されてしまうのです。
この現象のたちの悪いところは、さもその妄想が尊いもののように感じられ、犠牲にした課題と自分の中で相対化して、ナイナイしてしまうところです。完全にブドウはスッパイ的な逃避活動です。しかもその逃避をごまかす逃避を張り巡らすという、後ろ向きの防壁弾幕の周到さよ。
この「後ろ向き防衛弾幕」の壁を打ち破るには、時間を区分して生活しなければなりません。セパレートです。シェアーです。そうしてこそ己の欲望は飼いならされ、ミトコンドリアはコンパートメントされ、正常に活動するのかと。
ああ、解決法。分かっちゃいるけど、やめられぬ。哀れ妄想凡夫。