多重主人公は全員容疑者 〜「ぼくらの」に見るマーダーケース〜
と、いうことで前回触れました多重主人公の問題。
多重主人公の時代 〜ゼロ年代の想像力〜 - マントラプリの生涯原液35度
この問題について「ぼくらの」を通して考えてみたいと思います。
- 出版社/メーカー: Viictor Entertainment,Inc.(V)(D)
- 発売日: 2007/07/25
- メディア: DVD
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中でもイス取りゲーム。エンディングでも挿入されますが、主人公たちのコクピットには各人の家で愛用しているイスが円陣にそえられています。イス取りゲームのようにぐるぐる回る椅子。而して席からあぶれた人間ではなく、その座に選ばれた人間がロボットの操縦者となり、漏れなく生命を吸い取られ、死ぬ。恐怖のロシアン椅子取りゲームです。
で、このイス取りゲームのシーンを見て、一つ気づいたことがあります。それは探偵小説。マーダーケース(殺人事件)から多重主人公の着想は生まれてきたのではないかということ。
推理小説、中でもお決まりの探偵小説では毎回3、4人ぐらい人が死んで生きます。しかも閉鎖された空間。犯人はこの中にいる。そう、この構図を「ぼくらの」に当てはめると…。2週に1回ぐらいの確立で仲間が死んでいきます。しかもロボットの中という閉鎖された空間。オマケに逃げ出しても人類全滅で結局死ぬ。そしてこのなかに一人だけ契約していないで死から逃れられる人間(犯人)がいる。ということ。ほら、ぴったしかんかん。
そう、「ぼくらの」は「金田一少年の事件簿」の舞台をロボットに置き換えた、閉鎖空間ロボット殺人事件なのです。死に対するおびえ、仲間に対する不信から暴走したりする主人公たちの構図も、雪深い山荘に閉じ込められ、「犯人はこの中にいる」といわれた人々の構図と変わらないのです。そして最大のポイント。探偵小説では探偵という「暴く主役」と犯人という「行動する主役」の二人の主役がしのぎを削ります。しかし、「ぼくらの」には探偵はいません。いるのはロシアンルーレットに参画する人々のみ。そう、彼らは被害者であり、又もう一つの主役の犯人でもある。仲間を監視し、ロシアンルーレットの俎上に乗せ、死へと送り出す共同参画者なのです。皆が犯人であり、皆が被害者という悪夢のような状況。そう、探偵無き探偵小説、犯人と被害者だけの殺人事件が繰り広げられているのが「ぼくらの」という作品であると私は考えます。
そして「決断主義」の世界もその実、「探偵役」という権威(固定した主役)を拒んだ犯人と被害者たちによるマーダーケースである可能性が高いのではないでしょうか。そのため犯人が主役を演じたり(夜神月、ルルーシュ、浅倉威)、主役が被害者みたいに死んでみたりもする(城戸真司、夜神月)のでは?