「カワイソウ」に君はなりたいか

私が直視したいのは自分ではなく、「あなた」だ。そう、今この本を手にとっている「あなた」に向けて書いたのだ。
                       「サマースプリング」あとがきより 

サマースプリング [文化系女子叢書1]

サマースプリング [文化系女子叢書1]

id:amiyoshidaさんに献本していただきましたです。感想を書きますです。


…壮絶です、かつ想絶(造語)。一週間前に頂いて、一晩で読んで、それで、今日まで書きあぐねるぐらい壮絶な、実話でした。でも、それで、語るのをやめることは私の矜持が許しません。そこで私なりの切り口を以って献本に対しての謝辞とします。
「カワイソウ」に君はなりたいか?という、切り口。
この本は著者の中学時代をつづった自伝です。家庭は壊れ、学校では群れずに、暮らしている。そんな一人の季節の話です。主人公の境遇は悲惨です。布団に寝転んで読み、手を止め、読み、手を止め、読み、コレを自分の中でどう処理したら、いいのか考えるほどに。
一番簡単な方法があります。著者は「カワイソウ」な人だと思うことです。悲惨な中学生活を送った、家庭環境は最悪だ、「カワイソウ」。これが一番楽です。しかし、それは私が死んでも選びたくない選択肢。身内に、他人に、自分以外の誰かに、もちろん自分にも、「カワイソウなヒト」という形容詞を冠する。
それだけは、できない。
「カワイソウ」は大きな壁です。このレッテルを貼ることで、ヒトはその対象から距離を取ることができます。このレッテルで対象を捉えることでカテゴライズすることができます。しかし、何が、どう、「カワイソウ」なのでしょう?足の無いハトをたまに公園で見ます。このハトはカワイソウという名前を背負って生きているのでしょうか。一生機械に頼らなければ生命を維持できない人がいます。このヒトは名前の上に「カワイソウ」、経歴の上に「カワイソウ」、戒名に「カワイソウ居士」と付けられねばならないのでしょうか?ねえ?
人間は自分の触れづらいもの、扱いづらいものにレッテルを貼ります。つまるところの差別。あからさまに差別をされるのなら、まだ牙を剥いたり、妥協したり、話し合うことができます。敵意は、目に付き、鼻につくだけ、対処しやすい。しかし「アワレミ」。慈でもない、悲でもない。それを差別だとは言う人間も、言われる人間も気づかない。無責任な「アワレミ」は、もっと恐ろしく、もっと痛く、心に突き刺さってくる。それが分かる聡い人間には、より深くに。
「アワレミ」という差別を甘受して生きる人間も、それと気づかずに受け続ける人間もいます。しかしそれが差別である、壁である事実は目の前に立ちはだかり続けます。私は他人を、知り合いを、友人を、そして自分を「カワイソウ」と、思うことだけはせずに生きて行きたい。
「なら、何て呼ぶのさ?」
それが分かるなら、苦しくない。でも、少なくとも私は、「カワイソウ」と人から呼ばれたくない。協力はいい、励ましもいい、でも「アワレミ」は、いやだ。