大大阪と私鉄と小林一三と

かつて大阪の人口が東京より多かったとき、そこは日本の最先端、最高速の地であった。
そんな明治末〜昭和初期の関西文化圏の発展とそれを促した関西私鉄の発展を振り返る一冊。

「民都」大阪対「帝都」東京 (講談社選書メチエ)

「民都」大阪対「帝都」東京 (講談社選書メチエ)

私が尊敬する人物の一人に小林一三(こばやしいちぞう)という人がいます。

阪急電鉄(旧箕面有馬電気軌道)の創建の立役者です。と、それだけならあれですが、東宝宝塚歌劇団、阪急ブレーブスおよび夏の全国高校野球創始者とでも聞けば少しはビックリするでしょうか?
しかし今回取り上げたいのはそこではありません、いや、そこも含むのですがなにより小林一三が提唱した「ライフスタイル」についてこの本を参考に取り上げたいと思います。
現代、会社勤めをしている方の多くは電車に揺られて通勤しています。何故か?それは会社が都心部にあるからです。
何故我々は都心部まで電車で通うのか?郊外に住んでいるからです。
何故我々は郊外に住むのか?郊外の土地が広く、物価が安いからです。
はい、そこまで。この「郊外型住宅」と「都心の勤務先」という発想。およびそれをつなぐ「電車」というパイプライン。現代では当たり前になっているこのライフスタイルを推進したのが小林一三なのです。
小林一三は1910年の宝塚本線の開業に合わせて池田駅に池田室町住宅という、郊外型住宅地を作りました。これが現代にまで繋がる郊外住宅の先駆けとなります。驚くべきことにローンによる積み立てシステムが、住宅に導入されたのもこの池田室町住宅をもって嚆矢(はじまり)とします。
住宅を鉄道会社が用意することによって、それまで渾然一体となっていた職場と住環境は切り離されました。鉄道によって我々の公(仕事)と私(家庭)は区分され、現在の我々の公私意識が形成されていったのです。そう考えると小林一三は一人の職業人であると共に、現代でも我々の思想の基底部分に影響を及ぼし続ける思想家ともいえるでしょう。
さらに小林一三が偉大なのは住と移動だけでなく、その間のインフラ整備も手がけたことです。阪急百貨店が梅田駅に開業したのは1929年ですが、日本で初めてのターミナルデパートはここなのです。現代でも阪急の梅田駅を出たとたん、広大な通路とも百貨店ともつかぬ、空間が展開します。その威容はすでに80年前から用意されていたのです。創建当時ですでに八階建てのビルディングだったそうです。
そう、職場と住宅の移動手段だけの鉄道ではなく、住空間、ショッピング、はては休日の娯楽(宝塚歌劇団)まで鉄道会社が抱え込む、線路という国境によって結び付けられた空間。まさにそこは私鉄王国であり、そこに住む人々は私鉄の住人なのです。すさまじきフロンティア。
このころすでに梅田〜三宮間の特急の移動速度は現代とほとんど変わらなかったそうです。当時の国鉄は今と違って同じ区間の速度は阪急の1.5倍かかっていました。また、本数も国鉄が一時間に四本程度なのに対し、阪急は四十本。十倍近い差です。
まさに大阪を中心とした関西は、速度や本数の面でも「私鉄王国」だったわけです。
そんな偉大な私鉄王国の勃興を描いたこの本には、関西の誇りとはいかなるものかを考えさせられます。