どうしても切腹的民族か…

大切に育てた子がなぜ死を選ぶのか? (平凡社新書)

大切に育てた子がなぜ死を選ぶのか? (平凡社新書)

この本、思い当たることが多々あります。ハイ。まずは私の過去の記事を紹介します。
虫を殺せぬようなやつでも人は殺す - マントラプリの生涯原液35度
日本的「自粛」の思想 〜空気を読まない放送自粛を批判するには〜 - マントラプリの生涯原液35度
私は過去のこれらの記事で、
一 日本人は効率よく耐える事は知っているが、効率よく反抗することは知らない。
二 日本人は自分から「自粛」することによって権利を主張する、「切腹的」な自己主張の手段をとる。
ということを述べてきました。これらは悪徳でもあり、また美徳でもあるはずです。ですがそういったニュートラルかつ相対的な視点で日本人論を唱えている場合なのか。という気も私はヒシヒシとしています。
内向的、全体主義的、ムラ社会の日本をあらわすこれらの様相が、ムラ社会でなくなりつつある日本人に呪縛としてのしかかっているのではないでしょうか。
本書はいわゆる「いい子」の増加が、自殺や「生きる力」の喪失に繋がっている、とします。そしてその原因が過度に「母親」の役割を果たしてしまう女性と、仕事に打ち込むことでその状態を放置したままにしておく男性にある。とします。また、0歳段階における欲求をたやすく叶えてしまう「抱っこ」に、子供が万能感を抱いてしまう原因があるとも。
本書は一年前に出されたものなので、過去の書評を調べてみると「具体的なデータ」が少ない。または「いたずらに母親を不安にさせる」といったものが多いです。たしかに具体的なデータはあまり挙げられておりません。しかしこの反論もまた「日本的だなぁ」と私は思いました。
本書の内容を批判する声は「デッドオアアライブ」的なものが多く見られます。全面的に信頼し「その通り」と言う声と「いたずらに母親を不安にさせる」という声。しかし、どちらも極端です。これはあくまで著者の意見であり、それに100パーセント従えば「安心」だなんて誰も言ってはいない。ただ「こうゆう問題があるのではないか」と提言しているにすぎないのです。
それに対して「不安」になる人もいるでしょう。しかし、「どうして「不安」になるか」について考えて書評をしている人がいないのは不思議です。私なんかは「不安になった責任を他者に何とかしてもらおう」というのが日本人の最大の病理だと思っているのに。
過去においてはムラ社会や共同体が「育児の安全性」を保障してくれました。母親だけでなく地域が子供を保護(監視とも言う)し、育児責任は共同体で分割されていました。「親の子」であると同時に「ムラの子」であったわけです。しかるにムラ社会を解体した現代。日本人が個人主義に目覚めたかといえばそうでもなく、やはり「ムラ社会」的な育児の安全を保障する装置を求めているのです。現代においてその役割を果たしているのがマスコミや産婦人科、育児書なのです。しかし育児書やマスコミが述べる子供論はあくまでオピニオンにすぎません。それはムラ社会のような運命共同体、保障機関足りえない。
それにもかかわらず「本書の言うことを実行して間違った子供が育ったらどうするんだ」という反論をしてしまうのは、育児書に「ムラ社会的」な依存をしてしまう日本人の心性をあらわしています。
本はあくまで本、マスコミや医者はあくまで他人。そうであるはずなのに、いやそれだからこそ「ムラ社会」と同じ保証を求め、帰依しようとする。そしてそれができないと「信用できない」と感情的に批判する。口では「個人」、「個性」を唱えても、まだまだ「全体主義」なのです。
ムラ社会」的な抑制となあなあを求められるが、結果は「自己責任」。
「自分勝手」に事を運びながら、「ムラ社会」的な責任所在の不明瞭さに逃げ込む。
日本のアンビバレンツを「自覚」した上で、本書の提言に反論すべきではないでしょうか。