誕生日2

兎美味しいかのやま〜
小鮒啄みしかのかわ〜
飴をカレーに入れても〜
忘れ難き古砂糖〜

はいお誕生日おめでとう。ハイ有難う。お代はは要らないよ、見てってくんな。
歌を忘れたカナリヤはかなりヤダ。なぜなら人が言うからだ。
「この鳥はカナリアでしょう。なら歌うんでしょ?え、歌わない。こりゃあ失礼」え、いや、もちろん尋ねた人に悪気があったわけじゃない。カナリアは歌うものだからだ。歌わないカナリアがいたっていい。私はそう思う。だけど、歌わないことは、自由ってことじゃない。
先天的にしろ、後天的にしろ「何故歌わないのか」と人から尋ねられることは間違いない。そう、我々が歌を忘れるんじゃない。歌に我々が縛られているんだ。私が歌を忘れても、私が歌を歌う存在だったということを人は、世界は忘れてくれない。そういうこと。
だから「人から忘れられたときが本当の死だ」と、自分が記憶され続けることの甲斐を求める声に、必ずしも同調することはできない。我々が機会の機械だということを思い知らされるから。自分の死後も、延々と、そうであり続けることを。
我々の体には時計が刻み込まれている。年と共に針で体を刻むが、場合によっては途中で故障したりして、以後機能しなくなることもある。というか、そうやって終わる人が大半だ。
皆道半ばでどこかへいく。エンドマークを自分ではつけられない。映画のようにキレイに終わらない。生まれ生まれて生のはじめに冥し(くらし)。と言うが生まれたての「冥さ」は朝焼けの暗さ。日が昇っていくうちにそのことを忘れてしまう。でも終わりは徐々に暮れ行く暗さ。ゆっくりとゆっくりと自分の周りから人がいなくなる。町が姿を変える。もしかしたら、ウチの立憲君主制が終わっているかもしれない。
夕暮れはいつもさびしい。だから人は輪廻の朝日が再び上るのを待ったり、信じたりする。
最近は物覚えが悪い。細かく言えば文書を一回読んでも覚えておきたい内容しか頭の中に記憶できなくなっている。そのくせにいやな事は忘れない。墓場まで持っていくあれやこれやを一生懸命袋に入れる。そんなバーゲンセールのようなさもしさは持ち合わせていないが、やはり少し、寂しいね。
きっとそういう寂しさがあるうちはまだ、生きているし、何かをいいなぁ。って思えるのかもしれない。やはりというかやっぱりというか、人はセンチメンタルな生き物だなぁ。ルサンチマンと甲斐の間を往復する以外の画期的なルートを見出せるわけじゃないんだなぁ。ニーチェお疲れ様。
不毛は寂しく、かつ安心する。だからまあ、生きていてもいいんじゃないですかね。価値がなくったって多分いいんだ。甲斐がなくったって、多分いいんだ。だってそんなもの。人も自分も結局はわかんないんだから。世界を狭くするしか暇つぶしの方法がないって気づけば、少しはマシになりましょうかね。
「ナロー、ちったぁまともなこと、言えってんだヨ」
誕生日おめでとう。今年もいい年でありますように。