「KY」は誰のために

最近頻繁に議論されております。「KY」で、ございますが、山本・ペンダサン・七平*1氏が言っておられるように「空気」というのは日本社会を支配する「原則」の一つとなっております。
で、私たちは「KY」と他人に言われたときに、どう対処すべきか?空気に従うのか?反発するのか?>それとも空気を作り出すのか?今日はそこんとこ考えてみたいと思います。
このように日本社会において「空気」というものが蔓延したのは、日本人の全体主義的傾向によるところが大きいでしょう。我々は「日本」という共同体に強くコミットしております。それは名目上の政府や行政、国土というよりは、「日本」という「思想」に染まっているのです。よく言われる如く「日本教」という宗教の信者へと、知らないうちになっているのです。
日本教」が他の宗教に比して優れているところ、それはこの宗教に入信したものは自分の「意見」がなくても生きていけることです。沈黙をしていれば同じ日本教徒だったら、そこに何らかの意味を勝手に見出して解釈してくれます。もしくはほって置いてくれます。
決してアナタのことを「意見がないウスラトンカチ」などとは言わないでしょう。また、よっぽどそれが積み重ならない限り、思わないでしょう。これが「日本教」に入信することによって得られる最大の得点です。そして、この「沈黙の共有」こそが「空気」の主成分なのです。「触らぬ神に祟り」はないのです。
で、難しいところ。逆に沈黙に耐え切れずに発言する人間にとっては生き辛い社会でしょう。日本教徒は「沈黙」の責任は問わないくせに、「発言」「オピニオン」に対する責任はきっちりとらせようとします。ある意味理不尽です。ここで全体の流れに沿わない主張を使用ものなら、「KY」と呼ばれます。もしくは腹の中で毒づかれます。「日本教徒」以外にとっては「沈黙→発言」の距離感は微々たる物ですが、日本教徒にとってのそれは二進法のゼロと一以上の隔たりがあるのです。
我々は議論を尽くさずして、意思決定をする変った民族なのです。「事件は会議室で起きてるんじゃない」と織田裕二は言いますが、実は会議室ですら起きていないのです。では「意思決定」の場はどこなのでしょう。
それは「日常」我々は「会議」の前、意思決定の会場に入る前にはすでに意志を固めているのです。会議は場合によっては確定を補強する場でしかありません。「何か」を「作る」場ではなく、「決定事項」を「確認する」場になっているのです。会議はいわばゴール。我々はそのゴールの前、日常の段階で「ネマワシ」によって自分の思うような「空気」を醸成しておく必要があります。ですので「KY」と言う言葉の裏には「もうすでに空気(意見)は固まってるんじゃぃ!事前のネマワシもなく、何無駄なこといいくさっとるんじゃ!!」という遅きに失した相手に対する罵声なのです。
しかし現代。「空気」はその形を大きく変えようとしています。そうインターネットの登場によって。
インターネットにおける匿名の世界・例えば2ちゃんねるでは、多くの議論が巻き起こっております。しかしそれらは匿名の人間の間で行われるもので、「空気」を醸成するための「ネマワシ」は通用しません。この場で下手に「KY」とでも言おうものなら「オマエのほうこそ空気嫁」といわれます。この世界では「日本教」のしがらみは通用しにくいのです。では、ここでの「空気」とは一体なんでしょう。
それは「進行」。2ちゃんねるのスレッドの中で交わされている議論。いつの間にかその議論の流れが形成され、人々はそれに沿って意見を述べます。これにそぐわなかったりする者は誰であれ、無視されたり、荒らしとみなされます。
ここでの空気は日本教の「事前に」形成される空気ではなく、「その場」で形成される。いわば世界に普遍的な「空気」です。匿名によってはじめて「日本教」を離れることができる人もいるのです。「ネット人格」が現実の人格と乖離するのは「空気」の質が違うということが大きいのでしょう。
ですので、「KY」と言われたときにはまず、「日本教の空気」かそれとも「普遍的な空気」のどちらか見極める必要があります。
もし、「日本教」の空気ならば相手よりもネマワシを積むか、パワーバランスをひっくり返すよう努力するしか対処の仕様がありません。まだまだ我々は、全体主義的なのですから。
でも、「普遍的な空気」ならば己を反省する必要があります。まあ、そんなことに気づけるぐらい敏感な人はこの空気を踏み外すことはないですが・・・。
そして第三。以上の例に該当せず「相手の気分」によってこの言葉が発せられているのなら、そいつにこそ「KY」と叩きつけてやるがいいでしょう。何も考えずにこの言葉を使って人を詰める。それは日本教の教義でも、世界のコモンセンスでもなく、ただの「横暴」なのですから。そう、第三のケースの場合、そこにあるのは個人と個人のパワーバランス。獣の世界。犬の世界。そこで空気を読むか読まないか、それとも自分の空気を作り出すかはアナタ次第なのです。
それはあなたの「自由」にできる「空気」なのですから。
その「空気」のことを「犬」は「ナワバリ」といいます。
そして人は、「意志」ないしは「矜持」といいます。

*1:たまにユダヤ人に化ける書店店主