ヘーゲルすげぇ

ヘーゲルすげぇ!!何か分からんけど、まだ手探りだけどすげぇ」

ヘ-ゲル『精神現象学』入門 (講談社選書メチエ)

ヘ-ゲル『精神現象学』入門 (講談社選書メチエ)

と、頭の悪い発言をしました。すみません。私の中でもイマイチ整理できていないのでこんなカンジの感慨しか述べられないのですが、ヘーゲルは我々の「妄想」の遥か先を突き進んでいます。
指示代名詞が「モノ」を離れて一人歩きしだしたり、
相手の妄想を批判する自己の正当性が妄想ではないことを証明するのは不可能とか、
妄想は否定されることによって彫琢され、完成に近づくとか、
集合妄想の具現化である宗教と個別妄想が角付き合い、配合し合ってギリシア悲劇が生まれるとか、
配合を間違えると集合妄想に個別妄想が侵食してきて悲劇→喜劇へと推移していくとか。

なんか「セカイ系」をより普遍的かつ蓋然性のあるものに理論武装(デコレーション)してくれそうな学問です。我々の「日常」に近づけ、かつより「観念的」にする、しかし説得力ある、我々の底辺に横たわる深遠へと昇華してくれる。
母なる海が「観念」で構築されていたことを、我々が具象化されたものとして平然と通っている「橋」が、抽象の見えざる橋梁であったことを示してくれて、その上で「セカイ系」とはそこに架かる「普遍性」を持った観念の一部を切り出した形である。
みんなが「セカイ系」でありながら、そのことに気づかない。そして我々が生きるこのセカイは、個々人のセカイ系(島セカイ系)の集合から成り立っている。しかし己のセカイ系に生きている我々は、この世界が確実な、普遍的なものに見えてしまって、実は自分の「セカイ系」を通して見ている「セカイ」であることに気づかない。
そこで独善的になったり、「セカイ系」作品を「ジコチュー」と軽々しく批判できる。その批判が己の「島セカイ」から発生している発言であることを疑わずに。
これら「妄想」は否定されることで初めて受肉する。しかも、受肉するに際しても彼、我。主、客。その主導権はどちらかにあるのではなく、相互に運動し合い、「主体」はさだまらず、絶えず変転し続ける。「確実」さとはその運動性への気づきであって、「絶対」や「真理」といった「解」が客体として目の前に形を持って現れるものではない。なぜなら私の目の前にある「カタチ」を「普遍」であると証明することは不可能だから。
それなのに何故我々は「セカイ系」を「御都合主義」とか「閉じられたセカイ」と判断しがちなのか。我々すら閉じられていながら。
それは我々の多くが今生きる「現実」という名の「妄想」を信じているからであって、地球人の、アジア人の、日本国民の「妄想」の相似形があり、それによって自己を形成しているからだ。そこに依拠すれば個々人の妄想を世界に及ぼす「セカイ系」は「恣意的」と判断されざるを得ない。
しかし我々の拠って立つこの「集団妄想」もまた妄想であり、しかしてこの妄想が我々自身を照射することによって初めて「個」としての形をとることができる。西洋において「個」が発達したのは多分「ヤハウェ」という最大レヴェルの「集団妄想」の照射する光が国家の枠をまたいで強力に注ぎ続けたからでないんかい。云々かんぬん。日本には阿弥陀仏の無量光はあったけど、結局は照射し切る前に寺檀制度に飼いならされてしまったのかなぁ。どっちもそうだけど「帰依」すれば「帰依」するほど主体がなくなるのではなく、逆に主体が浮き彫りになっていくってのは「アンビバレンツ」で面白いなぁ。でも考えてみればよく分かる。絶対者の前では皆「平等」なはずなのに、傍らのヤツにエラそうにされたら「ムカつく」だろうからなぁ。阿弥陀籤のように個々人各々に救いの糸がたらされていることを「確信」すれば、そりゃ「個人主義」に近づくわな。「絶対者」を経由しないことには「個人主義」も生まれないんだなぁ。だから、ホントウの狂信者は一般人よりも「自己」を確立している。むしろ「洗脳」されていない。ブレてない。
そう考えると近代天皇制は「日本人」観念の形成に未だに大きな影響を与え続けているからなぁ。我々がソレを意識しないぐらいになぁ。すごいよなぁ。
そしてこの「妄想」の補強へと個々人がコミットすることが「日本人」としての証明となる。しかしてこれは実態ではなく、集合妄想である。しかし、集合妄想による照射なく、まったくまっさらな「原人間」なるものは存在しない。「集合妄想」を形成し、それへの忠誠を尽くす、ないしは反発をたくらむことで、初めて我々は形をとることができる。
かといってその「集合妄想」に寄り添いすぎた物語を作っては、ただの夏休みの日記や当たり前のことの箇条書きになってしまう。しかし、離れすぎると「セカイ系」ないしは「オナニー」との蔑称を浴びせられる。ただ、普遍と特殊を分けるのは「事実」ではなく、観念の集積の多寡であって、結局は我々は皆「セカイ系」の同心円状に点在している「運動」にすぎない。
…うーん。理解が足りてない、たぶん間違ってる。
我々がいくら「二次元だ」「妄想だ」と御託を述べても、まだヘーゲルの「観念」の先へは行けてない、全然足りない。我々は「個人」の「妄想」で充足してしまっているのに、ヘーゲルにいたっては客体的なものとしての「集団妄想」を作って、それと「個人妄想」の摺り合わせ、一体化を図ろうとしている。しかも宗教の介在なしに。
「世界をクリエイションする」程度のことなら誰でも思いつきます。でもヘーゲルは己の世界を形造るための客体の世界のクリエイションを、それによる「自己の確立」を夢見ている。
これを「国民国家」とか「共産主義」とかの狭義のカテゴリーに押し込めると、手垢がつきすぎて、ちゃッちくなりますが、むき出しのまま「観念」と「理論」だけを示されると急に凄まじいものになる。レベルが違う…。まだまだ「応用」が「効く」
もう少し勉強しなければなりません。勉強したら、また書きます。