「騙され上手」に何故ならない!?

春近いというのに、日々吹雪き吹きすさぶ今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
この寒さと同じように世間は世知辛いアリさまでござんす。人が人を騙し、己すら己を欺く世の中。そんな世界では皆が皆、騙されないように肩肘張って、風を切って生きておリンス・イン・シャンプー。
…などと、格好をつけてみましたが、私一つ気になることがござんす。騙す騙されるは世の常として、騙されないように護身に務めるのは至極当然、ですがみなさん、
「騙されていいものにまで過剰防衛してませんか?」
そう思ったのはこの記事に対する反応のブクマを見たからです。
ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話 - ホームページを作る人のネタ帳
そこに書かれている文言の多くは「感動した」とか「収入あるんだからニート呼ばわりはいかん」というものですが、中には「釣り?」とか「フィクションかもしれん」と、実在を疑う声がままあります。私としては「ニート」という冠を筆者の方がこの女の子に冠している事と、現状(彼女自身、ネットでの収入がある)の齟齬から、真実ではないかなぁ。と思っているのですが。(嘘つくならここら辺の矛盾は埋めるだろうし)それよりも、美談やありえないシチュエーションには必ず一定数の実在を疑う声があるのは確かです。
ネットという匿名社会において、見ず知らずの相手の発言をそのまま信じ、鵜呑みにすることはできません。また、「釣り師」と「釣られる人間」というコミュニケーション方法もある、と言うこともよく分かります。
しかしここで「釣り、釣られ」「虚虚実実」を嗜み(たしなみ)すぎると、それが習慣となる恐れがあるのではないでしょうか。騙される、騙されないの問題ではなく、つまりは
「騙され下手になる恐れはないか」ということです。
人間は日々嘘をついて生きています。そして私の考えるところ、その大半は罪の無い嘘です。
こういうと「なら何であんなに騙されて泣いている人間がいるんだ!」とお叱りを受けるかもしれません。しかし、考えてください。我々は人と会話するとき、懇切丁寧に真実だけで会話することはありません。少しむかむかしていても「気分は?」と聞かれたら「サイアク」と答えず「んー、ぼちぼち」ぐらいの表現で抑えるでしょう。これも「嘘」です。人間は軽微な嘘で塗り固めないと言葉一つ吐くことはできません。懇切丁寧に事実だけを厳選し会話するヒマも、余裕も我々には無いのです。したがって人間の嘘の9割以上は害の無い嘘となります。
我々は普段、その嘘を察しても腹にしまってそのまま会話を続けます。というか、実戦を積みすぎて、意識下でスルーする技術を習得しています。何だかんだいって、我々は人を「信じて」いるのです。その嘘も含めて。
しかし、現実のコミュニケーションはある程度素性の知れた相手ですが、ネットは正体不明の人間の寄り集まる世界です。そこにおける発言は嘘に満ちています。おまけに現実と違うのはその嘘は害のあるものも多く含まれていることです。
したがってネットリテラシーとして「鵜呑みにしない」という技術は初歩中の初歩のものとなります。しかし、このリテラシーを過剰に使用しすぎると、「信じたつもりになってもいいものまで不必要に疑う」羽目に陥ります。
今回の本屋の話だって信じようが信じまいが「害」はないのです。しかしそこに「釣りにしてはよく出来ている」「釣りにしても良い話」と前置きせねばならない、いられない精神が存在します。そうしなければ、もしその話が「事実でなかった」「仕組まれたもの」であったときにその話に感動した自分が馬鹿みたいだからでしょう。
でも、それって、その態度ってホントウに「賢い」のでしょうか?
ネット上で付かれる巧妙な「嘘」、それを信じて「本気」で感動し、後でフィクションだったとひっくり返される。それはたしかに悔しいかもしれません。防衛線も貼りたくなるやもしれません。でも、「罪の無い嘘」に騙されない「予防線を貼れる人間」の方が「毎回騙されて感動してしまう人間」より程度が高いようには私にはどうしても思えない。むしろ「騙され下手」になっているのではないか、と危惧します。
いいじゃないですか。他愛の無い嘘に騙されたって。創造的な嘘をつく人間は、一円にもならないことを労力をかけて、精魂こめているんです。その対価に騙されたっていい、と私は思う。「騙されること」を「信用できなく」なって、騙される前に、予防線を張って、何に対しても批判的にしか見れない人間よりも。
好き嫌いなく、何でも食べる人間の方が、いちいち食べ物の品評をして防衛線を貼らないと食べられない人間より好ましい、私はそう思います。