なんだかんだで「一次創作」者は渇望する

二次創作について。

ああ、僕ちょっとニコニコ脳に洗脳されすぎてたかもしれない。はなから一時創作としての魅力なんて度外視していた。これ単体で面白いかどうかなんてこれっぽっちも期待しちゃあ、いなかった。
僕は「ニコニコ脳」におかされているのかもしれない - 敷居の部屋

というid:sikii_jさんのコメントが妙に身につまされます。
最近、というかだいぶ前からですがニコニコ動画と既存のメディアは対立項で捉えられています。「ニコニコがあったらテレビとかいらねえじゃん」てな感じに。
ですがひろゆき氏を初めとして、ニコニコの面白さがテレビを凌駕するとは考えていない。なぜならニコニコ動画はテレビ以上に「お約束」の「内輪」の世界だから。初音ミクや、東方や、アイマスや、パンツアニキやドナルドのことを知らない人間が、これを見ても、面白いかもしれないが…、でも、一人の部屋でコメントも無いテレビで、これを延々と見続けるのは不可能だ。傍らに「コメント」が「ニコ中」が存在してこそ、初めて動画の「内輪性」が力を発揮する。
同人誌にも同じことが当てはまります。二次創作で傑作を描ける人には一次創作でもすばらしいものが出来るはず、しかし現実はそんなに甘くはありません。二次から一次への間には大きな壁があります。その壁とは「キャラ付け」です。
オリジナルキャラで、オリジナル脚本で勝負する場合、なによりも必要なのはキャラクターを人に理解させることです。というか「読みきり」の大概はキャラクターを理解させること自体に全紙面が費やされるといっても過言ではないでしょう。これは大変めんどくさい。二次創作の場合は「キャラクター」に関する個性は周知のものとしてあらかじめ伝播されているので、下ごしらえなく、いきなりストーリーへと取り掛かれるのです。
ある程度技術のある人間は、今やっているマンガの設定を生かしてそれより面白い同人を作れるかもしれない。しかしそんな彼がマンガの「第一話」を作れるか?サラ地に芽を葺かせることができるか?疑問です。そしてそこが一次と二次の大きな瀬戸際なのです。
ニコニコは基本「一話」と「キャラ設定」を人に作ってもらい、ソレ以降の展開を楽しむコンテンツなのです。それこそが「二次創作」たる由縁でしょう。その結果「危惧」されるのは、我々は二次創作に満足して、一次創作を生み出す源泉を枯らそうとしているのではないか、ということ。それ単体で面白いモノを作る努力を忘れつつあるのではないか、ということです。
このジレンマを解消する方法、それは自分の逸脱をいかに愛せるかどうかにかかってくると思います。例えば原作を使った二次創作でどうしても出てくる自分のクセ。そのクセを自覚したときどう対処するか?
より原作に近く、ニコ中に喜ばれるカタチに自分を沿わせるか、そのまま自分に合わせどんどん逸脱していくか。二つに一つです。今はMADや二次創作で満足している人間も、スキルが上がっていくごとに必ず「逸脱したい何か」を感じざるを得ない。そこでどう振舞うか、心地よい「二次創作」。下手でも支離滅裂でもキャラクターという記号の元に「同居」することを許される世界を超え、自分を貫くか。技術者や職人には必ず「逸脱」を感じる瞬間が訪れるのです。そもそもそれを感じない人が二次創作を続けようが、やめようがおそらくは一次創作の絶対数やクオリティには影響しません。だから私は一次創作の衰退うんぬんに関しては何の心配もしていない。実は。

たしかにニコニコ市場が拡大し、人々は大声でMADや二次創作を叫ぶようになった。しかしそれが一次創作への意欲をそぐか。逆だと思います。二次創作でどこまで騒がれようが、どれだけもてはやされようが、投稿者は「うP主」という名前で呼ばれ続ける。自分の名前で呼ばれることは、あまりない。そして何より、いつまでたっても自分は加工者であって、コンテンツクリエイターではない。そのことに対する焦燥感やその他色々な感情を、「一次創作」できる人間が抱かないはずが無い。そこがどれだけ居心地が良かろうが、乾く人間は乾く、渇望する人間は、渇望する。やっぱりそういうことなんだと思います。