「信仰」と「知識」の読書法

個人サイトで「つまらなかった」と書く必要はない。 - Something Orange
たいていの本はつまらないので、あなたががそのジャンルの本全部読んだ上で「つまらない」と、ある本を言うんだったら認めてやるよ - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
読書には「信仰の読書法」「知識の読書法」の二つの方法があると思う。そしてその二つはどちらかを選んで行うのではなく、車軸の両輪のように使い分ける性質のものなのだ。
「信仰の読書法」は、「質の読書」。とにかく一冊を読み込む。その文言、背景、台詞、全てが透けて見えるように、暗証可能なぐらい読み込むこと。
この方法はいわゆる「国語」教育に類似した方法だ。とにかく一冊を読むこと。
「知識の読書法」は、「量の読書」。本を漁り読む。細かい描写や、意味の分からないところは飛ばしてもいい、とにかく量をこなすこと。
この方法は乱読と呼ばれる。頭に残らなくても、とにかく量を読む。
この二つの読書法を使い分ける際、目安となるのが時間軸だ。古い時代のものであればあるほど「信仰の読書法」が、新しい時代のものであればあるほど「知識の読書法」が、有効になってくる。なぜか?
古い時代のもの、つまり「古典」は時を経て「今に」残っている。我々の眼に見えない先人、読者によって精査され、選び抜かれた結果、今そこにあるのだ。また「古典」が古ければ古いほど、そこからの文章や思想の引用を受けた著作が膨大な量になる。したがって古典一冊は「一冊」でありながら、そうではなく莫大な「未来の文献」を内蔵している。それ故に、読込む「精度」は「信仰の読書法」が要求される。
一方、現代の本はそれこそ百花繚乱。日に何冊の本が出ているか分からない。このような場合、自身の教科書やテキストにするもの以外は、一冊一冊に時間をかけるよりはそれらの本のエッセンスのみを消化することに終始するはめになる。
本を読みなれていない人によくある傾向だが、一冊の、それも最近出版された本を読んだだけで、その分野の知識を理解したと思い込んでしまう。古典ならともかく現代の本でこの「思い込み」は危険だ。したがって類似した分野の本を乱読し、現在の「位置」とでもいったものを自分の中で整理する必要が出てくる。そこで「知識の読書法」が必要になってくるのだ。
人は自分の生きた時代、自分の世代の本のみを読むわけではない。だからこそ、この両方の読書法を駆使して読込むことによって自分の立ち位置を測り、「己」を確立する必要がある。
本に対する「己」が確立するとはどういうことか?
それは自分の趣向によって「信仰の読書法」と「知識の読書法」を使い分けることだ。時代性、普遍性に囚われず、自分の趣向にあった本を選び出す。その本がどんなに新しかろうが、他の人の評価が悪かろうが、その本への思いによって、「信仰の読書法」的な読込み方をする。要は「愛」だ。ただし、愛といっても経験を踏まえ、自分で選び取った愛。無分別智の上の分別智であって、「偏見」とは意を異にするものだ。
「本」を紹介するとは、「本」によって確立された「己」を紹介するということだ。
その「本」がそれまでの自分の読書の基準と照らし合わせてどうか?自分の中でどれだけのウェイトを置く事が出来るか。これまでの読書経験から照らし合わせ、その本に対して割り出される「数値」というものが確実にあり、それによって人は本を評価し、紹介する。
その「本」が「おもしろい」か「つまらない」か以前に、自分がどうやって本に触れて、愛してきたかが、はっきりと分かってしまう。
そのことを「畏れるか」、「畏れないか」つまりはそういうことだと思う。