學而不思則罔 思而不學則殆
学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆うし。論語の一節である。
昨日、この言葉の意味がはじめて分かった気がする。私は前者だ。
思わないわけではない。思っている。しかし、「思う」ことを貫徹することが出来ない。自分の「思い」に託して、突貫することができないならば、それは「思う」ようで「思って」いないのだろう。「思い」は頭の中での想像のみではない。それは「憂い」であり「意志」であり「行動」のことだ。
私は行動に託すことができない。行動を「学ぶ」ことに先立たせることができない。己の思いよりも「ロジック」を先立たせてしまう。ロジックがよければ、「思い」より「方向」より「偏向」よりも優先させる。それはさながら白昼に酔っているようなものだ。石橋を叩いて渡らない。それは賢明だからではない。懸命が出来ないだけなのだ。
懸命なきものに「己」が降ってくるものか。
憂いなき「学び」、思いなき「思想」。それはたしかに罔い(くらい)。出口が無い。
「出口を探さないのは自分が賢明だからだ」と言う言葉を平気で吐ける。そして恥じてなお、それが「賢明」だと思い込めてしまう。でもそれは罔いのだ。
裸のまま突貫することができない。「蛮勇」を、根拠なき「思い」を信じきれない「学び」。そんな「罔い」状態のままでは、学びの方角も覚束ない。
私には恐れがある。私には勇気が無い。それは結局「罔い」のだ。
昨日、そんな感じのことを、違う言葉で指摘された。