ただ、ただ、多田源氏

当ブログではid:cujoさんとの多田、能勢電鉄旅行記の掲載を予定しております。
その前の予備知識として「多田源氏」、「能勢源氏」に関する筆者が書いたレポートを転載しておきます。

1:多田満仲(ただみつなか)を知っていますか?

 今回、能勢を旅するに当たって避けては通れない道。それは多田満仲へのアプローチです。多田(源)満仲(912?〜997)は摂関期初頭の軍事貴族です。彼の父は経基王(つねもとおう)。平将門藤原純友の同時挙兵が起こった承平・天慶の乱において、双方と干戈を交え、これを追捕した源氏の祖です。
 多田満仲摂津国川辺郡多田の地を本拠とし、自身の子飼いの郎党を育み、源氏の武士として地歩を築きました。と、同時に天皇摂関家に侍る軍事貴族としても活躍します、ただ、その主な活動はタレコミです。安和の変によって時の左大臣源高明(みなもとのたかあきら)が左遷されたのも彼のタレコミによるものでした。多田満仲を祖とする多田源氏はタレコミの家としても知られ、彼の子孫・多田行綱(ただゆきつな)は鹿ケ谷の陰謀の際に、法皇の計画を平清盛にタレコんでいます。ここらへんのタレコミ一族の系譜を面白おかしく書いているのが司馬遼太郎の戯曲『鬼灯』です。機会があればお読みください。

花の館・鬼灯 (中公文庫 A 2-9)

花の館・鬼灯 (中公文庫 A 2-9)

2:源氏の祖・多田満仲
 先ほどは経基王を以って源氏の祖としましたが、実質上、源氏の基礎を築いたのは満仲と彼の息子たちでした。
 まあ、源満仲の主な活躍はタレコミなんですが、彼の三人の息子たちは武門の誉れとともに語られています。
<長男・源頼光摂津源氏の祖
 大江山酒呑童子退治で有名な長男です。部下に金太郎や渡辺綱がいます。ただ、かれの武勇譚の多くは彼の死後、伝説として語られたものが多く、実際の頼光の活躍は、軍事貴族としてのものよりは、藤原道長の家司として、受領(ずりょう)として任国で吸い上げた莫大な財をせっせと摂関に寄進するという役割でした。彼の子孫がタレコミの多田源氏や、鵺退治で有名な源頼政摂津源氏土岐氏明智光秀明智氏、遠山の金さんの遠山氏、飯田氏を輩出する美濃源氏。そして能勢氏へと分流していきます。でも実は、後の源氏の本流ではないのです。
参考文献。

酒呑童子の誕生―もうひとつの日本文化 (中公文庫BIBLIO)

酒呑童子の誕生―もうひとつの日本文化 (中公文庫BIBLIO)

<次男・源頼親大和源氏の祖
 大和源氏の祖となりました。ただ、大和源氏は早くに没落したので他の二氏ほど後世に一族は残っていません。また、彼は「殺人の上手」として知られ清少納言の兄も彼の命令によって殺されています。
こんなのも参考文献として。
王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪

王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪

<三男・源頼信河内源氏の祖
 三兄弟の中で、後世に家門の誉れを最も残したのが源頼信です。彼は本拠地を河内石川に持っていたことから、彼の一族は河内源氏と呼ばれました。ちなみに聖徳太子の墓の近くです。彼は長元元年(1018年)に東国で起こった平忠常の乱を平定することで、東国に地歩を築きました。そして彼の息子・頼義、孫・義家が前九年・後三年の戦功を立てたことで、源氏は東国の覇者への道を歩みだしたのです。そう、彼の六世の子孫が源頼朝であり、義経なのです。

ちなみにこれが河内石川にある河内源氏の居館跡です。多田源氏の多田院と同じく寺になっていたのですが、退転して境内は廃墟です。
 河内源氏の分流は、源氏宗家をはじめ、足利氏、新田氏、武田氏、小笠原諸島の名前の由来になった小笠原氏など、多く及んでいます。なにより頼朝以後700年近くに及んだ武家政権の正統は、ずっと河内源氏(自称を含む)であり続けるのです。

3:今昔物語集の中の多田満仲
 今回訪れる多田神社(多田院)に関しては今昔物語集「摂津守源満仲出家語」が参考になります。この説話では
1満仲と多田の地のかかわり
2満仲の出家と多田院の由来
3息子・源賢
等について詳しく述べられています。内容も頑張って読んでみるとめっちゃオモロイです。源信がやってくるまでの、荒くれ者の集団だった多田満仲と愉快な郎党たちは、さながら『北斗の拳』のラオウ軍に属するモヒカンどものような有様でした。空では鷹狩で鳥類を殺し、海では網で魚をキャプチャーし、山では鹿を追い殺す。おまけに人間も「虫ナドヲ殺ス様ニ殺シツ」という有様です。そういえば「虫けらのように殺す」に類似した用法は900年前の今昔物語にも使われていたんですね。
そんな非道な満仲に恐れをなしたのが、息子で出家していた源賢(げんけん)です。彼は師匠の源信*1にお願いして、満仲の罪業を清めるため、その出家を促します。彼等は一計を案じ、攝津にある満仲を尋ねます。「箕面山への参篭の道すがら」という言い訳をしていましたが、おそらく箕面温泉スパガーデンに行っていたのでしょう。*2都でも評判の源信の突然の訪れを歓待する満仲。彼は自邸で源信の説教を聴いたとたんに落涙し、即日出家を決意します。郎党も涙ながらにお供して出家します。このコペルニクス的転換はラオウが敗れた後、今までいたモヒカンたちがどこかに消え、部下が一瞬でマトモなヤツラばかりになった時の如しです。そうして出家し、自宅を仏堂としたのが現在の多田神社(多田院)となったのです。ここらへんの多田院の様子については旅行記で詳しく書きますので一応境内の写真だけ。

ちなみに、一箇所気になったのは満仲が源信を招待したときに「御湯ナド浴サセ給」いているところ。ここで「湯ノ有様微妙(メデタ)ク物浄キ」とあることから、ひょっとしたらここで使われた湯は多田の地に沸く平野鉱泉という温泉の性質をもった水だったのではないでしょうか。この近辺は箕面温泉、伏尾温泉、宝塚温泉、有馬温泉と、温泉、ことに炭酸泉に恵まれた地なのです。それに関連するお話を少ししましょう。

4:三ツ矢サイダー多田満仲

三ツ矢サイダー PET500ml×24本

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 嘆かわしいことに、三ツ矢サイダーの「三ツ矢」が毛利元就の「三本の矢」の説話に由来すると考えている人間の多いこと多いこと。違います。三ツ矢サイダーの「三ツ矢」の由来は多田満仲なのですっ!!
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 三ツ矢サイダーは明治時代に宮内省兵庫県川西町平野の鉱泉を利用して、炭酸水の御料工場を建てたことを嚆矢とします。有馬温泉で炭酸煎餅を売っていることからも分かるように、北摂の山間部には炭酸を含んだ鉱泉が沸く土壌があるのですね。1884年、この工場の権利が明治屋に譲渡され、「三ツ矢平野水」として売り出されました。これが三ツ矢サイダーの、はじまり。
 で、話を最初に戻しましょう。この「三ツ矢」の由来です。多田神社に伝わる『摂州河辺郡多田院縁起』によると、満仲が安和元年(968)に住吉大社に参詣したとき、夢に現れた明神の放った鏑矢(かぶらや)に従って、多田の地に着き、そこの多田沼に住む大蛇を退治してこの地を支配しました。
 この鏑矢が「三ツ矢」の名の由来となったのです。また、満仲が湯治に使用した平野の天然鉱泉が、平野水として三ツ矢サイダーの原料となりました。まさに多田は日本炭酸飲料の発祥の地といえましょう。あ、ビールのが早いから横浜ブルワリー創業の地・横浜か。

*1:げんしん。往生要集を書いた人。源氏物語にも登場。王朝文学のデウス・エクス・マキーナ的存在

*2:嘘。多分勝尾寺