元気が、あれば

「元気があれば、なんでもできる」ということばがあります。僕はこれが唯一の真実ではないかと考えだしています。
ここで反論が来るとすれば「なんでも『出来る』なんて嘘だ。叶わないことが多いから、人間はみんな苦悩しているじゃないかっ!」というかんじでしょうか。
でも「できる」は意志であって、必ずしも「結果」を伴わないのではないでしょうか?いや、もっといえば、
「結果なんてしるか!」「しれるか!」
現代の「病理」の最たるものとして「人の身になって考えろ」の過剰があると、私は考えています。
日本人は人間の関係性の中で生きます。関係性を、その鎖を教義として生きる関係教の信者ともいえます。それが人と人との絆になったり、思いやりであるうちはいいのですが昂じてくると、関係性でお互いを縛ろうとするのです。相手の発言をデッドオアアライブの二択で受け取り、過剰にコミットしたり、過剰に拒否したりする。ソレを行う自分の「正当性」は保留しながら。いわゆる「○○ちゃんがやっているから、私もやりたい」という言葉です。相手の生態を、言葉尻を捉えて、そこに無責任にコミットする。その結果、発言の一つ一つに、なぜだか「結果」が付与される。自然と「結果」を求める。結果を過剰に重視する。人間なんてみんな、途半ばで逝くのに。
上記の「なんでも『出来る』なんて嘘」というのも結果を前提とした物言いです。かれは「元気があれば、なんでもできる」という言葉に、過度の期待をこめています。「なんでもできる」=「超人みたいに何でも可能にする」と考えているのです。「できる」という言葉を「可能」=canとのみ捉えているのです。
しかし「できる」は多義的な言葉であって、そこに反映されるのはcanのみでは決してない。とりわけ「結果」の意味でもない。例えば、「元気があるなら何でも出来るというなら、ノーベル賞を取ってみろ」と言われたとしましょう。そこでノーベル文学賞を取るために私小説を書き始めれば、「できる」ことになるのです。ノーベル文学賞への可能性に「とりかかった」のですから、必然的に「可能性」がアップするのです。
「そんなのは詭弁だ。「できる」じゃなくて「はじめた」だけじゃないか」いえ、「できる」ことを示したのです。そのまま続けてノーベル賞を取れるかはともかく、その可能性が生じたことは間違いない。ゼロが1へと転換したのです。わたしはその意志をもって「できる」としたいのです。
逆に「元気があれば、なんでもできる」の「できる」の部分に過剰に反応し、そこに揺り篭から墓場までのケアを要求する態度こそ「病気」なのではないでしょうか。そういった短絡性の恐ろしさに我々は知らず知らずのうちに蝕まれています。全てをオールオアナッシングに還元してしまう、「結果」の理論に押し込めるのは「病気」です。自己啓発のためや理論の整理のためには善いですが、それを振り回すのは「迷惑」なのです。
「結果」を前提とするよりも、まずしなければならないこと。それは「はじめること」。まず飛びつくこと。一歩、歩むこと。先の結果を「夢見る」よりも、足元の一歩を「踏み出すこと」。
元気があれば、いや、なければ奮い起こして「できる」のはその一歩であり。それ以上でも、それ以下でも、ない。そしてそれが至善にして至高の「できる」こと。
「できる」意志を示すこと。それが「元気があれば、なんでもできる」と言う言葉なのです。けして「元気がありさえすれば、何でも思いのままに実現可能」といっているのではない。この発言を聞いて何の気なしに「後者」を想像してしまう想像力は、短絡ですし、少し危険です。それこそが「可能性」を狭める一歩ではないでしょうか。
「元気があれば、なんでもできる」。なんにでも、とりかかることができる。機会を掴むための、手段を講じられる。百里の一歩を、踏み出せる。
短絡性の奴隷にならないためにも、「安易な結果」を人に、言葉に期待することは慎みたいものです。仕事上の関係でない限りは、身の回りにいる人はあなたの「ノルマ」ではないし、あなたも身の回りの人の「ノルマ」ではないのですから。それは可能性とは全然別の道行きですから。