書という芸術
埼玉に里帰りしたので、気になるこの展覧会に行ってきました。
江戸東京博物館
すさまじい展覧会です。何が凄まじいって、アンタ。出てるんですよ、王羲之(おうぎし)(303〜361)の蘭亭序(らんていじょ)の神龍半印本(しんりゅうはんいんぼん)がっ!!
『とめはねっ!』でも言っているように中国や日本などの漢字文化圏で最大の手本とされていたのが王羲之の書法でした。
とめはねっ! 3―鈴里高校書道部 (ヤングサンデーコミックス)
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その王羲之の最高傑作といわれているのが蘭亭序です。
蘭亭序とは、王羲之が会稽郡山陰県*1に、当地の士大夫を招いたときにものした書です。実はこれ、下書きらしく所々に修正の跡があります。しかし、清書が残らなかったわけではなく、王羲之自身がいくら清書しなおしても、下書きほどうまくいかなかったため、下書きのほうを子孫に伝えたようです。その場の勢いや筆のノリというものの重要性がわかるエピソードであります。
で、今回の展覧会で出品されている神龍半印本は原本ではありません。これは中国の初唐期に二代皇帝・李世民(りせいみん)*2が原本を書写させたものとなります。で、ひどいことに李世民。蘭亭序の原本を愛するあまり、自分が身罷る際、墓に一緒に葬らせてしまったのです。こうして蘭亭序の原本は地上から永遠に姿を消してしまったのです。「おのれ
とまあそんなわけで、現在出品されている蘭亭序はこの地上に残る模本の中で最も状態のよいものとされており、中国いや、漢字文化圏「書道史」の至宝中の至宝なわけです。それを見てきましたよ。
でー、感想なんだ。うん。王羲之が魏晋南北朝時代の人なわけで、彼の真筆は伝わっていないから、初唐〜清末の書の展示が今回のメインだったわけですよ。で、沈度(しんど)スゲー、隙が無いのにまるーい。とか、黄庭堅(こうていけん)はっちゃけすぎ、900年前から前衛芸術やってどうするのさっ!とか、さまざまな書家に対するさまざまな感想があったわけなんですよ。でもね、王羲之のところに来たら、何も言えないんですよ。
いや、他の人に比べて王羲之がダントツ上手いとか、そういうことじゃないんですよ。ああ、なんだろう。つまりは、「みんな、王羲之から始まったんだな」ってのがなんとなく分かってしまった。それは王義之を越えていないとか、王羲之の影響下にあるとかいう生易しい話じゃなくて、王羲之がちょっと字形をゆがめて描いたとするじゃないですか。そうすると後代の人間はその王羲之がゆがめた字に対して、そのまま踏襲するか、ゆがみを矯正するか、ゆがみをさらに進めるか、あえて見てみないフリをするか、の四択しかないんですよ。「王羲之?シラネ」と言うことは出来はしない。どんなモグリでも、この漢字文化圏に生きるからには王羲之の影響を受けた筆法を見ずに、使わずに「書道」をすることはできない。それこそ山にこもってただ自分ひとりの楽しみのためだけに書を書いて、誰にも気づかれずに死ぬ以外、王羲之の書法から逃れる方法はありはしない。篆書に戻ったり、金石文で王羲之以前に遡ろうとするアンチテーゼだろうが、そのことに一切変わりは無い。アンチテーゼは、神に逆らうものは実は最も敬虔だったりするのだ、その行為を含めて。そういう恐ろしい世界なんだなぁっ、て。そのヒエラルヒーの、頂点が、今、目の前にあるんだなぁって。なのに、どの作品よりも気楽な顔をしている。肩肘を張らず、間違いは容赦なく黒墨でべりべり消してある。ホント、なんなんだろう。その余裕が恐ろしい。それが、書かれた当時は余裕でもなんでもない、比較無き天地だったことを想像すると笑い出したくもなってくる。ああ。
「書は芸術だ」「見方は人それぞれにまかされている」「かんじたままにみればいい」うそだ、ウソダ、嘘ダ。絶対嘘だ!知らなければ王羲之の世界の中に我知らずに取り込まれ続けるままだ。そういうものだ、そういうものが「書道」なんだと、思ってしまった。そして、「知らない」自分が憎い。描けない、いや描かない自分はこの衝撃を語ることは出来ても、その世界に分け入ることは出来ない「お客様」のままなんだ。そこは厳然としているんだ。悔しい。
悔しいので蘭亭序の神龍半印本を今日から延々と書写することに決めました。多分、そうしなければ嘘になると思うから。
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