ホームズが見ているもの

名探偵・シャーロック・ホームズが、ベイカー街の事務所に訪れた依頼人の素性を推理しますよね。
で、いつもワトスンくんが驚く。「どうして分かったんだいホームズ」と。
そこで、ホームズがつらつらと推理の種明かし。着ているものが良いから金持ちで、また、この服を着るのはこういう職業。服に濡れた跡があり、その乾き具合から見てどこそこの地方からやってきた。しぐさからこういう性格だ。というかんじ。
ワトスンくんはそれを見て「なぁんだ、奇術でもなんでもないじゃないか。タネがわかれば僕でもできるよ」てなことを思うでしょうし、事実言っている。
でもね、それは大きな間違い。ホームズが見ているものは、それだけではない。今日はそういうお話。
ホームズは種を明かしているが、その方法を詳らか(つまびらか)にしているわけではないということ。服に関して、そこから読み取れる情報は限られていて、ホームズがワトスンにいったような「限定的」な情報を導き出すことはできない。ホームズの推理を批判する人たちの中には「ホームズの説明は説明になっていない。あの情報から結論を導き出すのは不可能だ。こじつけだ」と、このホームズの推理シーンのアラをつこうとする人が多々見られます。しかし、この人たちも、ワトスンくんも分かっていない。これは「職人芸」なのだということ、「経験」のちからだということを。
職人やある種の天才には、「自動作業の才」(じどうさぎょうのさい)が備わっていると、私は考えます。この才は自分が「その作業をやるぞ」と意識しないでも、脳が、手が、足が勝手に動き出して作業をするというオートシステムです。なに、不思議なものではありません。我々にも習得可能です。例えば箸の使い方。これを一度覚えると、次からは復習をしないでもそのまま使えるようになり、ついには箸を持っていることを、箸を使っていることを意識せずに、くっちゃべりながらでも食事が出来る。箸を操作している。「自動作業」とは、我々の日常に欠かせないものなのです。
で、ホームズや職人の「自動作業の才」とは、これを「生活」以外の部分に伸展させたもののことを指します。ホームズに関して言えば「推理する」という自動作業が脳に組み込まれており、それは彼の日常で昼夜寝食を問わず、活動し続けるものです。これは自分で「止めよう」と思って止められるものではありません。常に稼動し続けるのです。ですのでホームズがワトスンくんに自身の腕前を披露するのも決して「ワトスンくんを驚かせてやろう」と「思って」やっているのではなく、頭の中で自動的にシステムが稼動し、導き出されてしまうのです。ただ、それを説明するか、しないかの違いだけです。
この「自動作業の才」とは本来、他人に説明するのは困難なものです。ましてや取得させるなど。ですので職人は弟子に技術を身につけさせるために、自分の仕事の有様を見せるしかありません。それは職人が意地悪なのではなく、そうするしか「自動作業の才」を身につけさせるすべが無いことを知っているからです。
そう「説明困難」なのです。ホームズは確かにワトスン君に種明しをしています。しかし、ホームズが何年も、それこそ己の生涯をかけて研鑽し続けた「推理」に関しての「自動作業の才」はその全ての手を明し、他人に細部にわたって説明するのには不可能なのです。なので、ホームズがワトスン君に話している「種明かし」は素人でも理解した気になれる「とっかかり」の部分のみなのです。
服に関しても、ホームズはそれ以外にその人物の身分や階層を導き出す数百もの手がかりを引き出しているはずです。しかし、それはホームズにしかわからないもの。何百、何千もの人間の人生を性格を推理し、ある一種の身分の人間に漂う「におい」、「しぐさ」。常人では補足不可能、ましや判別なども出来ようが無い「人間一般」の「類型」の振り分け装置を自分でくみ上げたホームズ。その仕組みはホームズ、いや身につけた「技術者」のみが理解できるのです。いや、技術者すら使用できても、あまりにも「自動的」すぎて「説明」や「解釈」を全て詳らかにするほどの「理解」はできていない玄妙なものなのです。
そういう「レベル」が違うことを、「分明化」できないものを、分明化された部分のみ取り上げて「簡単」と言い切ってしまえる。その無恥さは恐るべきものです。そして「天才」が身に着ける「自動作業の才」というものは決して摩訶不思議の力ではない。かといって法則性が詳らかにできるものではない。そういう「経験」の力を慮り、想像できる人間こそが「敬虔」なのではないかと。