男女ド阿呆民主主義

今度描くマンガ『リュディア王クロイソス』の参考にするために、こんなん見ましたよ。

うん、この映画はスパルタとアケメネス朝ペルシアの戦役・テルモピュレーの戦いを描いたものです。
で、ですね。この映画、上映当時からなんだかんだ言われておりまして、
「王政(ペルシア)に対する、民主主義(スパルタ)の抵抗の精神の話」だの、
「行き過ぎた民族原理主義(スパルタ)に対する、多民族国家の寛容さ(ペルシア)の話」だの、
どちらに肩入れするかで、賛否両論、喧々諤々なわけですね。
私も最初見たときはスパルタ側のあまりにもあまりな自滅精神にポカンとしてしまったわけですよ。
「全然民主主義じゃない、不倶者は生後すぐにより分けられ、捨てられるじゃないか。選民思想の上の民主主義かよっ!!」
「『民主主義の敵は全員金で買収されてました』なんて、トンデモナイ御都合主義」
「王妃がでしゃばりすぎるなぁ、近代以降の男女観を古代に持ち込むなよ…」
エトセトラ、エトセトラ。
で、あまりにもむしゃくしゃしたんで、『プルターク英雄伝』のリュクルゴスの話を読んだんですよ。いや、あまりにもハリウッドな作劇を揶揄するつもりで。「見ろ!スパルタの開祖・リュクルゴスは映画のようなことはやってないぞ」と言うつもりで。…ゴメンナサイ。私が間違ってました。
スパルタは、スパルタ人は、『300』どおりの「男女ド阿呆民主主義」でしたっ!!
スパルタという国はリュクルゴスの作りし国。彼はスパルタを一代で徹底的な共産主義的民主国家へと変貌させたのです。その手腕がすばらしい、というかキチガイ
「強国を築き上げるためには国民一致で事に取り組むしかない。そのためにはどうすれば良いか?」まず彼が考えたのは、富と土地の全供出及び平等なる再分配です。まさに共産主義革命。
で、ここまでなら凡百の共産主義指導者もやっていること。リュクルゴスが凄いのはココからです。かれは国内の富を平等にしても、外部から富が流入してくることを知っていました。今は平等でも、いずれ個々人の才覚によって富の不平等が生じてくる。そこで彼が取った策は、
一.テクノロジーの追放
二.貨幣の廃止
三.徹底した共同生活

です。現代の我々からしたら狂気の沙汰です。しかし流通経済の発達していない古典古代のこと、これらの徹底的なブロック経済政策は逆にスパルタを強国へとのし上げていきます。
まず、テクノロジーの追放によって工芸品や、余計な装飾に対する民衆の興味関心を消し去り、見得の心を奪うことに成功します。見得を張るだけの技術や嗜好品の流入がなければ、持ち物によって驕りや蔑みを生じることがなくなるというわけです。
と、同時に他国で嗜好品を購入することを防ぐため、他の都市との共通貨幣(金貨・銀貨)を撤廃します。『300』の劇中で神官や政敵が金貨によって買収されているシーンが多く見られるのは、ご都合主義的展開でもなんでもなく、「スパルタ人にとって貨幣の所持こそが自分たちの民主主義を脅かす最大のものであった」という前提を踏まえた演出なのです。と、同時に最古の世界帝国であるアケメネス朝ペルシアこそが、世界で最初に国際通貨を発行していること。およびそれを使用した調略を行っていることとの対比にもなるわけです。
三の徹底した共同生活。これこそ現代人にはとうていできないものの筆頭です。まずは会食。特別な用事が無い限り、スパルタ人は全員、一ところで同じものを口にします。また、子供も家族の元を離され、国家のものとして共同生活を送ることになります。
前述の二点と同じようにスパルタ人の最も恐れるものは「格差の発生」であり、心情においても例外ではありません。つまり「独占的な愛」を禁じたのです。子供を共同生活させるのも、親ごとに差別的な愛情を注ぐことを防ぎ、各人が家族単位の偏愛に固まることを防ぐためです。レオニダスの副官が従軍していた息子に「親として」の喜びの言葉をかけたとたん、息子の気が緩んで敵に首をはねられたのもスパルタ的な教育と、その禁を「偏愛によって」破った報いがはっきりと現れて、象徴的なシーンです。
夫婦生活においても例外ではありません。女性はアテナイのように家に閉じ込められるものではなく、自由に外を歩き、肉体的な修練を積み、男性に対して平等に口を利くことを赦されています。また、男女が夫婦になった後においても、夫以外との交渉を持つ事が可能であったのです。これも「愛」が家族単位にわだかまらず、広く共同体の構成員として行き渡るための方法であったと考えられます。スパルタはギリシアの諸都市の中で最も女性の権利が認められた国でもあったのです。『300』でレオニダスの妻が活発に動き回るのも、ハリウッド的脚色のみが理由ではありません。*1
もちろん、私はスパルタを手放しに賞賛しているわけではありません。この国では「弱きもの」、「身体的に弱きもの」は男女問わず罵声を浴びせられます。それが先天的なものなれば、生まれた段階で捨てられてしまうのです。その批判者として表れるのがせむし男のエフィアルテス。彼はレオニダスに従軍を求めるも、その体型上、楯をひさぐことが出来ないことから拒否されます。そう、彼はどうあがいてもスパルタという「民主主義」に入ることが出来ない。健全な肉体と精神に至上の価値を置く「民主主義」は彼を排除する。
私は拝金主義者ではありません。しかし富も門地も無い世の中が平等とは思えない。「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず。ただし心身のキャパシティは生まれた時点である程度決まっているから、まぁ頑張れ」そんな不平等設計な世の中でボンクラに金があることを、ボンクラの門地が善いことを不平等といえるのでしょうか?富があって初めて平等になれる人間だっている。人間の能力が平均化されない限りは、富や門地によってバランスをとる不平等さがあっても良い。
しかし、スパルタは、それを認めない。
人がアケメネス朝ペルシアの金に、クセルクセスの権力に寛容さを見出すのは、「心身」のどうしようもない不平等さを覆す「金」を彼が与えてくれるからでしょう。
人がスパルタの肉体に、レオニダスの意志に反感を抱くのは、その「民主主義」が健全な肉体と精神にしか開かれていない、不平等な世界だからでしょう。

そして忘れてはいけない。この作品の製作者はそんなダブルスタンダードが生じることを100も、200も、300も承知だということを。だからこそ、二つの間を揺れ動く我々の分身としてせむし男のエフィアルテスがいるわけです。
スパルタは決して輝かしい民主主義を、西洋の精神の勝利を象徴する存在ではない。彼等は我々とは同化できない、表題どおりの「男女ド阿呆民主主義」な連中なのですから。
彼らの『排他的』な民主主義を貶すのは簡単です。しかし、それでもなお、その不可能性に、原始の共産主義的民主国家に「光」を見てしまうのです。そこにいては、何も掴むことができないエフィアルテスが何故、最後の最後までレオニダスの『承認』を得たがったのか。排斥されてなお、そこに『光』を見てしまう我々の「かなしみ」は、スパルタだペルシアだといった単純なオルタナティブで片付けられるものではない。常にその極端の間をさまよい続ける、永遠に安らぐこと無しに。



最後にひとこと。ペルシア王。ありゃ、ペルシアじゃなくてエジプトですよ。せめてゾロアスター教的なモチーフがひとつでもあればなぁ。「オレが神だ」ってイクナートンかよ。イラン人怒るのも無理ないです。

*1:レオニダスがカミさんといちゃいちゃしすぎるのが気になるところではある、が