ジジ抜き民主主義

先週土曜日にid:tukinohaくんと飲み屋で管を巻きながら都市国家論と民主主義論を話していましたが、その続きがブログまで飛び火したので、ここに載せます。これ以前の経過は彼のブログを参考にしてください。
2008-10-25 - tukinohaの絶対ブログ領域

外国の使者の件に関してはたしかにそうですね。私の筆が走りすぎました。
ギリシアを含む諸国家には「使者は殺してはならない」との国際法とは言わないまでも、暗黙のルールが存在していました。しかし、自国内の国民の精神を高揚させるという理由のみで、アテネもスパルタもそのルールを平気で破りました。
彼らの民主主義は狭い都市国家内で完結したもので、国際的に通用する概念となりうるものではありませんでした。にも関わらず、彼らの政治生命が危機に陥った時には他国への亡命が積極的に行われました。アテナイにおけるペルシア戦争第一の功労者・テミストクレスですら、敵国・ペルシアへ亡命し、生涯を終えました。アテナイというポリスのために死ぬ兵士はいますが、民主主義という政体そのものの為に死ぬ兵士はいないのです。民主主義ギリシア専制国家ペルシアというキレイな対立概念はヘーゲルの妄想です。
「民主主義」が同国民内の狭い範囲にしか適用されない上、「民主主義国以外への亡命」という手段も積極的に採られる。自国内だけでしか機能し得ない不完全な民主主義であり、かつ、彼ら自身そのことを取り立てて自覚していないことが現代の「インターナショナルに通用する概念としての民主主義」とは似て非なるものだ。と言うことを述べたかったのです。説明不足でスミマセン。
tukinohaさんは「奴隷制」をギリシアが民主主義でない根拠にしていますが、私は「契約の方向」を根拠とします。
西欧社会は三十年戦争ののち、宗教(キリスト教)を仲立ちとしない、国家、王、人間相互の「契約」社会へと徐々に移行していきます。この流れは、フランス革命で「王」が取り払われたことによって、「王」すらも仲立ちとしない「国民国家」へと進展した、と私は考えます。また、東ローマの滅亡やルネサンスの影響により、キリスト教以前のギリシア・ローマへの関心が深まり、西欧社会へと徐々に浸透し、その政体を「民主主義」として捉える流れがヘーゲルなんかから出てきたわけですね。
ここで問題になるのは、西欧社会はキリスト教のくびきから脱しながら、思考方法はキリスト教のそれをそのまま継承しています。にも関わらず、彼らがギリシア人に思考を及ぼすとき、ギリシアの「神を仲立ちにした民主主義」と言う面は忘れ去られ、一足飛びに「人間相互の契約による民主主義」と捉えられている点です。
キリスト教圏の民主主義は神を追い出しつつ、神という視線は残した契約社会であり、ギリシアは神の神殿を中心としたポリスで、それぞれ完結した民主主義である、というように宗教、ないしはその残滓を媒介としている点では変わりありません。
私は民主主義というものを「神」、「王」という「絶対者」をババ抜きのババとして、その残滓は残しながら巧みにジジ抜き(特別な札がなくとも、ゲームが成立しうる)に変換出来ているか否かによって図ります。ですので、明治国家が途中から天皇というババが入ることで不完全になったというよりは、ヨーロッパのようにジジ抜きに変換する契機や、志向自体を日本人は持っていなかったし、また今も持ちえていないという経験の差であろうと捉えます。
この考えは著しくヨーロッパの「史観」。それもフランス革命を基準とした、に寄りかかったものです。そもそもドイツやら、イタリアやらの旧ファシズム国がフランスやイギリス、ひいてはアメリカと同じ意味での「民主主義」を確立していたか、私は疑問です。ヘーゲルやら思想家はその理念に「萌え」て、「思索を進展する」ことは出来たが、彼らの属する「国」。つまるところの分立する王国(藩)を近代に急ごしらえでまとめた枢軸国自体が「革命」を体感し、「ジジ抜き的民主主義国家」になることができていたかは、疑問。また「ジジ抜き的民主主義国家」が現在世界の中心だが、国政においてもそれを体現し、民衆がその「原理」で動いている「国」が両手で数えるほどあるのかも、疑問。
立憲君主制自由主義、民主主義。この三つの弁別をもう少し明確にしないといけませんね、ハァ…。