西国街道1

西国街道42.195キロ走破の模様をお伝えします。
8:00 阪急高槻市駅

スタートは阪急高槻市駅です。本来の西国街道のスタート地点は東寺もしくは羅城門なのですが、そこから歩くと本日中に目的地に辿り着けそうにないので、目的地の阪急岡本駅からだいたい42.195キロの位置にある、高槻からスタートです。

第一目的地・高槻のやよい軒です。駅の目の前にあります。高槻やよい
前にsiki-jさんが、ここでアイマスのオフ会をやったと聞いたのでなんとなく寄ってみました、ハイ。

高槻市白梅町の交差点。ここから西国街道と合流です。ここの白梅町という地名はJR高槻駅前にある上宮天神から採られているのでしょう。京都の北野天神の近くにも白梅町という地名があります。まさに西国・大宰府へと菅原道真を慕って飛び行く「飛梅」と、西国街道を下りゆく私の境遇がシンクロします。

コラム1<西国街道
江戸時代に整備された全国の街道の一つ。山陽道の一部であり、京都〜三宮間を指す場合、この名称が使われる。
西国大名の江戸、京都への往来に使用された街道であり、現在の国道171号線とほぼ並行して走っている。

8:20 芥川宿(あくたがわじゅく)



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そうこうしている間に最初の宿場・芥川宿に到着しました。高槻市の中心部にあるここは、西国街道の宿場町のひとつです。西国街道は7,8キロに一箇所の割合で宿場が存在します。京都から数えると
東寺−山崎宿−芥川宿−郡山宿−瀬川宿−昆陽宿−西宮宿−三宮
となります。「芥川」宿ですが、芥川龍之介との関係は、よく分かりません。
そして、この芥川宿には、面白いものが残っております。

これ、一里塚(いちりづか)です。

コラム2<一里塚>
江戸時代の慶長九年(1604)、徳川家康の命により、大久保石見守長安が設置した道標。一里(四キロ)ごとに道の左右に一対が置かれた。
塚の上には榎などの木が植えられ、道標となる。

この一里塚ですが、京都〜兵庫間の西国街道中、現存しているのはこの芥川宿のもののみになります。祠の後ろがわの土盛が塚の本体です。

参考になるかわかりませんが、こちらは東京の王子に現存する日光御成街道(おなりかいどう)の西ヶ原一里塚です。こんもりとした土盛に木が植わっているというのが標準のようですね。本来はこの写真より小さい正方形の区画に土盛りがされています。
さて、芥川宿をあとにして、街道をとぼとぼ歩くことにしましょうか。

芥川(あくたがわ)にかかっている橋を渡り、

継体天皇陵(歴史家比定)を越え、

もひとつ継体天皇陵(宮内庁比定)にさしかかる頃には、そこは茨木市です。


9:15 雲見坂(くもみざか)

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雲見坂は太田東芝町交差点の手前にある坂です。

この近くにある太田城城主・太田太郎頼基(おおだたろうよりもと)が、この坂で雲の運行を見て、戦の指針を決めたそうです。彼は源平争乱期の鎌倉方の部将で、大和源氏の一門だそうです。このあたりに土着し、平氏や、頼朝と仲たがいした後の源義経らと干戈を交えました。
大和源氏についてはこちらを参考までに。
ただ、ただ、多田源氏 - マントラプリの生涯原液35度

ちなみにこの坂からは東芝の工場がよく見えます。工場の建物の奥にうっすら見えるのはフジテックのエレベーターの実験塔です。

そこから安威川を越えます。次の目的地は茨木(勝尾寺)川のたもとにあります。


9:40 白井河原合戦跡


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元亀二年(1571)に和田惟政(わだこれまさ)と荒木村重(あらきむらしげ)・中川清秀(なかがわきよひで)の間で行われた戦いをいいます。
荒木村重中川清秀が川の西側、和田惟政が東側に対陣し、河原において合戦が始まりました。この戦いで和田惟政は討ち死に、それを討ち取った荒木、中川両氏が摂津国支配の表舞台へと乗り出していくことになるのです。

コラム3 <和田惟政
1532-1571。近江国甲賀郡の有力豪族。足利義輝〜義昭の親子三代に仕える。出家していた十五代将軍・義昭を興福寺より救出、還俗させ、その擁立に尽力した。後に織田信長に帰属する。摂津国芥川城のちに高槻城城主。(どちらも高槻市)この合戦の敗死後、高山右近によって高槻城は奪われる。

んで、その中川清秀(なかがわきよひで)の生誕地は、ここから歩いてわずかのところにあります。


9:45 中河原


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はい、一見したところ、何の変哲も無い交差点ですが、この交差点・中河原は、近世における交通の要衝でした。
東西を貫くのはご存知・西国街道です。そして北から接続するのは丹波国亀岡から直通する清坂越道、さらに南からは難波から吹田を経由して、西国街道へと合流する三嶋路(南北道は明治以降、亀岡街道となる)が、ここ中河原で合流するのです。
その交差点の傍らに中川清秀生誕地の碑があります。

前述の合戦によって、和田惟政を討ち取り、首級を挙げたのは中川清秀とされています。

コラム4 <中川清秀
1542-1583。摂津国の豪族として池田氏に仕え、のち荒木村重の勢力が大きくなるとそれに協力し、荒木、中川、高山三氏が摂津の中心勢力となっていく。
荒木村重が信長を裏切ると、それに協力するが破れ、以後は信長に属す。本能寺の変後は秀吉に協力し山崎の合戦で武功を挙げる。賤ケ岳の戦いで戦死。妹は『へうげもの』の古田織部の妻。

中川の名字は中河原あたりから採られたと考えられます。*1先を急ぎましょう。

中河原を越えたこのあたりは街道ぞいに旧家が何件も残っています。総じて高槻、茨木両市の街道沿いは風情が残っていて、歩いていていい気分です。さて、実は今回の旅、友人の宇多源氏君に会いに行くという目的があるのですが、そのほかにもう一つの理由があります。
それはケンタッキーフライドチキン・小野原店に行くことです。
理由は次回。

*1:追記。中川氏の発祥は摂津国豊嶋郡中川村みたいです。ここは嶋下郡なので違いますね。サーセン