拡散する「月光仮面」

これは全特撮好きに読んでもらいたい一冊!

「月光仮面」を創った男たち (平凡社新書)

「月光仮面」を創った男たち (平凡社新書)

月光仮面」。言わずと知れた本邦初のテレビヒーローである。
昭和三十三年(1958)、日本におけるテレビ放送開始から五年後、ブラウン管に颯爽と現われたこのヒーロー。
白いタイツにターバン、マント。グラサンは黒く光り、バイクに乗ってやってくる。のちのあらゆる国産ヒーローの根源となった・月光仮面。本書はそんな月光仮面の製作の現場に光を当てると共に、それに携わった多くの人々…原作者・川内康範。企画者・小林利雄。監督・船床定男。そして月光仮面役の大瀬康一にフォーカスを絞る。
それでいながらこの本は、月光仮面から派生していった偉大なるテレビ文化の花々についても語ることを忘れない。
月光仮面なかりせば、特撮ヒーローは生まれなかった。
月光仮面なかりせば、二時間ドラマは誕生しなかった。
月光仮面なかりせば、テレビ時代劇は生まれなかった。
月光仮面なかりせば、三十分番組は定着しなかった。
月光仮面なかりせば、大映ドラマはもちろん生まれなかった。

今宵はそんな月のひとかけら。主にウルトラシリーズおよびウルトラファイト、特撮時代劇、仮面ライダーへの「月光仮面」の影響を考えよう。

まず、ポイントの一つとして月光仮面は当初、週6回、10分間のスポット番組として始まったことである。これは後のウルトラファイトレッドマンゴッドマングリーンマン牛若小太郎などの、スポット番組の先駆けとしての意味がある。つまり、「原初、特撮ヒーローはウルトラファイト的であった」のだ。これは私にとって衝撃的な事実であった。
10分のスポット番組として始まった月光仮面がその人気の上昇と共に30分番組へと格上げされる。これが本邦児童番組初の30分枠モノだ。これだけで偉大さひとしおなのだが、もうひとつ。この時間帯のスポンサーがタケダ製薬ということに注目して欲しい。
そう、世に言う「タケダアワー」である。
1958年の月光仮面の30分枠への移項をもってタケダアワーは始まる。以後、1974年まで続くのであるが、そのラインナップを見てもらいたい。
月光仮面−豹の眼−隠密剣士−新・隠密剣士−ウルトラQウルトラマン−キャプテン・ウルトラ−ウルトラセブン怪奇大作戦−妖術武芸長−柔道一直線ガッツジュンシルバー仮面−決めろ!フィニッシュ−アイアンキング−隠密剣士 突っ走れ!
…もはや何も語るまい。月光仮面のヒットがなければタケダアワーも続かなかった。そうなれば、ウルトラQは、ウルトラマンは、セブンは、怪奇大作戦は、妖術武芸帳は、柔道一直線は、生まれえたのか。いや、なかった。
そうなると牧冬吉も、桜井浩子も、黒部進も、小林昭二も、毒蝮三太夫も、中田博久も、小林稔侍も、森次晃嗣も、ひし見ゆり子も、子門真人も、岸田森も、ささきいさおも、佐々木剛も、世に名前が知れていたかは分からないのである。考えられますか?
で、そうなってくると円谷文芸部の上原正三市川森一が特撮畑で働くこともなく、彼らが企画協力した仮面ライダーは別のものになる。
また、月光仮面のヒットがなければ製作元の宣弘社はヒーロものを続けようと思わない。そうなれば宣弘社企画部社員の井上正喜(いのうえまさき)氏もヒーローものの脚本を書かずに一生を終えたはずで、ある。
井上正喜、ペンネーム・伊上勝(いがみまさる)。すなわち、氏がメインライターを務めた仮面ライダーは、生まれなかった。そして氏がメインライターを務めた60〜70年代の特撮の多くは、存在しなかった。
もちろん息子(井上敏樹)が脚本家になることも、なかった。
つまり仮面ライダーも「月光仮面」がいなければ存在しない、ということ。そもそも月光仮面がバイクに乗っていなければ、バイクヒーロー自体が存在しなかったであろうから。
また、月光仮面の後を受け、主演・大瀬康一のままに作られた「隠密剣士」は、「仮面の忍者・赤影」のプロトタイプとでもいうべき作品である。
牧冬吉や天津敏といった赤影の中心を彩る俳優は、「隠密剣士」で見出され、役柄的な部分も同じ形で踏襲している。また大森俊介が演じる子役の少年がおり、大瀬康一が赤影、大森俊介が青影、牧冬吉が白影とそれぞれ対応するような役柄を振られている。ついでに牧冬吉の役名は黒兵衛。これをもじると、
黒兵衛→くろべえ→ろくべえ→六兵衛
となり、そのまま今度は「河童の三平」における牧冬吉の役名になる。また、タイトルもストーリーの説明ではなく、その話に出てくる忍法名をそのまま使っており、「赤影」や「仮面ライダー」をはじめとした70年代特撮のタイトルセンス(怪人名、必殺技名をタイトルにする)にそのまま継承されていく。この呪縛が解けるのは、じつに「宇宙刑事ギャバン」の登場を待つしかないのである。…ああ、まだ語り足りない。
現在、「月光仮面」は「神話」と化した。その業績は遠い昔のものとなった。「偉大さ」を名前に聞いてはいるけれど、「行跡」は誰も知らない。まさに「どこの誰かはしらないけれど だれもがみんな知っている」と言う月光仮面の歌詞そのままに。
だから、末流の特撮を見ても、アニメを見ても、二時間ドラマを見ても、人は月光仮面を思い出しはしない。しかし、本書を手に取ることで気付くことができる。
その源流にある月光仮面の存在に。ささやかな、そして大いなる月夜の光に、今でも照らされていることに。