師走

師が走ると書いて「師走」、12月を指します。mantrapriです、皆様お久しゅう。

「怒りに我を忘れる」と言います。
そうなると、「我」があるうちは怒りはそこまでエスカレートしないということになるのでしょうか?
「我慢」できない。という表現からも我に慢心しているうちは「怒る」ことはないとなりましょう。
しかし、一方では「我」があるから、自分が大切だから、人は「怒る」ように思われます。「我欲」こそが怒りの元だ、と。
私はこの矛盾、というか、相反するように見える「我」と「怒り」の関係を私は三段階で捉えます。
図示すると、


レベル一(無我の平常心) ⇒レベル二(自我の怒り) ⇒レベル三(忘我の怒り)


となります。
レベル一は怒りが形を取っていない、平常の状態です。我々がただ何気なくすごしている、ぼうようとした日々です。ここに「怒りを抱くファクター」が飛び込んできたときに、初めて「怒り」が生じます。
レベル二は怒りを抱くファクターが飛び込んできた後の状態を指します。
人は怒りの要素を自分の中で咀嚼し、自分との関係性を理解します。そして回路を繋げて後、初めて具体的な「怒り」を表象させるのです。
怒りの回路を繋げること自体は理論的なものなのです。本人に説明はできなくとも。
怒りが具体化するとともに、怒りに反応する人間の「我」といったものが生じます。
これは理性とかリーズンとかに近い意味で、各人の対外的な要因に対する「反応の有り様」とでも言えるものです。喜怒哀楽に付随して生じ、その行動パターンを位置付けるもの、それが私のとらえる「我」です。
最初は我との連関によって形成されてきた怒りですが、それがエスカレートすると、我や自意識を越えて、行為そのものに没入していきます。これがレベル三の亡我の怒りです。
こうなると理論は通じなくなります。相手の意見も自分の内面の意見も聞かず、獣のようにその内実を精査することなく、目的を発散させるのみです。
以上、三段階に分けて「怒り」のプロセスを見てきました。「我」とは人間の精神を「怒り」に導く役割を果たしますが、その役を果たした後はその存在は置き去られオートマティスムになります。怒りの奴隷になるわけですね。
怒りを抑えるためには第二段階の時点で第一段階へと引き戻ることが肝心なのです。
怒りが我によって膨らまないうちに、よそ事を考えるとか、思い出し笑いをしそうな事柄を思い出す(なんだか変な言い回しだ)とか。
怒りに赴こうとする「当事者」が思うほど、怒りは重要なものでも、必要なものでもありません。ましてやあなたのプライドを充足させることなんて、ない。
「我を忘れ」て怒る前に、そこに凝り固まろうとする「我」を上手く別方向にちらしてしまいましょう。