物語力について

この物語力といいう概念には二つのサイドが存在する。
日常=親和。右顧左眄力(うこさべんりょく)とも言う
物語=不親和。物語は他者を排斥する。

日常を自覚的に生きると「物語」化する。これは己の主体的なコミットメントを感じられる世界。妻に感謝、子に感謝、親に感謝。日常そのものを「ありがたい」もの=レアととらえる。これとは逆にクソゲととらえ、「明確に他者認識」する。(『神のみぞ知るセカイ』)
日常を自覚的に改変する過程が進みすぎると「虚構」化する。取るに足らないものに聖性を見出していく。かつ、それがきわめてプライベートなものであるため、前提を共有しない他人との相互理解が不可能になっていく。さらに前提を共有する人間すら引いていく。(exパリ・テキサス惑星ソラリス)
さらに進むとシャーマンのような様相を呈する。こうなると磁場転換が起き、自分をパラノイアだとして遠ざけてきた世間が擦り寄るようになる。自分に判断を仰いだり、自分を聖化するようになる。いわゆる「教祖」化する。


日常を無自覚に生きると「日常」というフラットな空間が広がり続ける。
無自覚のまま生かしてくれる装置が「共同体」。これに判断を移譲するおかげで、人は安定した精神を保つことが出来る。「物語る重圧」を無視できる。「物語」に関わることと、それを維持することは「苦痛」なのだ。その「苦痛」を緩和するため、人は「物語力」をもっている他者に自分をゆだねる。共同体であったり、マスコミであったり、教祖であったり、オカンであったり。「物語力」と無関係に存在できる人間はない。他者の物語にただ乗りした状態。
これが進むと、判断力つまり物語りを維持する力が低下の一途をたどり、客体レベルになる。人に判断を仰ぎ、自分で選択できることが少ない「流されやすい人間」が生まれる。
そこからもう一歩すすむと「信者」になり、他者の物語に完全に依存するようになる。そして他者への同化を望み、自分がそれまで構築してきた物語を放擲しだす。
これを限界まで推し進めると「狂信」に移行する。物語を他者に委譲するあまり、今度はその全体の「物語」の個々人における差異性が鼻につくようになり、同じ物語を共有する人間を、その受容の差異を非難するようになる。主体性を失っていく過程が、逆に強烈な主体性の獲得へと転換する。これがさらに進むと「教祖」や「法」など、依存すべき主体すら信じられなくなり、一気に神話レベルへと転換する。自分が「教祖」になる。釈迦の弟子のダイバダッタや『ヘルシング』のイスカリオテ機関などがいい例。



神話(中山みきレベル:物語・主体・無自覚・不親和)強力な磁場となる。自分の妄想が現実で、他者へも拘束力を持つ。

虚構(パリ・テキサスレベル:物語・主体・自覚・不親和)私はココ。現実を物語の側にゆがめる。

主体(リア充レベル:日常・主体・自覚・親和)主体的にコミットメント

日常(共同体レベル:日常・客体・無自覚・親和)(日常の物語性、操作可能性を放棄。物語力に無自覚)

客体(日常という怪物に食われる。物語力に無自覚)

信者(:物語・客体・無自覚・不親和)自分の物語を放棄。人の物語へただ乗り

狂信(ダイバダッタレベル:物語・客体・自覚・不親和)他者の物語の道具となる。差異を見出し、それが自分の物語だと気付いたときに神話レベルに転換

U字型の双曲線を描く。