自己チューでないと他人の立場には立てない

「自己チューでない人間は、他人の立場に立つことはできない」と私は考えます。
人間の人生に対する認識には、「体感する生」と「鑑賞する生」があります。
体感する生とは自分の体感、記憶に基づく生。鑑賞する生は他人の生を見て、自分と照らし合わせる生。
人間はこの二種類を使い分けずに生きています。だから抵抗の手段と資力と知恵がないだけにすぎない子供という生物を「無邪気なもの」として、たかをくくることができるのです。己が子供時代に持っていたであろう「怨念」を忘れて。
自身が子供自分に「体感していた生」を忘却し、「鑑賞する生」で子供という存在をとらえることから生じる誤解やあしらいなのですね。「青春」もこれと同じように体感する生ではなく、鑑賞する生の範疇に属します。まさに「青春時代の夢なんて〜、後からしみじみ、思うもの〜♪」です。
「人の立場に立って考える」ためにまず必要なのは、自身の発言、行為が「体感する生」寄りのものか、「実感する生」寄りのものか弁別し、省みることであります。
これができて初めて、自他の認識が明確化し、自分の領分が規定されます。そして、共同体や社会によって外郭規定される「自己」を、主体的に規定しなおすことができるのです。
自己チューになれない、つまり自己を「実感する生」で規定しようとしない人間は「国や共同体や父祖の習俗に相手を従わせる」働きかけはできても、「他人の立場に立つ」ことは、できない。