神様や信仰や

神様や信仰や
そういったものは約束ごとだ。


人は一人では生きられない。
それは常識。

それとともに、
人は人だけでは生きられない。


食物連鎖や自然環境の話ではない。
人は人以外の、人とは全く関係ない理(ことわり)で生きている他者を、
自分に近づけなければ生きていけない。


どんな優しそうな人間でも、犬に近づけば吠えられる。
人とは、煎じつめればその「吠える犬」である。

犬よりたちの悪いことは、人は吠えることに理由をつける。
なおかつ、吠えられた被害者にも、その理由を押し付けようとする。

その最たるものが「信仰」。

押し付けられた「理由」が、「文明」。


彼らは人間以外にもこのルールを押し付ける。
ありていにいえば人間以外にヒューマニズムを「押し付けたつもりになる」ために信仰が生まれたのかもしれない。

自分の安心(あんじん)のために、他者にルールを押し付ける。
相手への罪滅ぼしのために、「祈り」というローカルルールで罪を重ねる。

人は一人では生きられない。
人は人だけでは生きられない。
その理由をつけるためだけに、それ以外をないがしろにする。


でも
さらに救いがたいのは
それを外から見ている「つもり」の人間かも知れない。

じぶんがローカルルールで生き、それを他者に行使していることに気付かず、
宗教の埒外にいる「つもり」の人間かも知れない。

だから、「無宗教」と自己定義する日本人を信じられないのかも。