2011-02-21

00:18
「やる夫が鎌倉幕府を――」ラストに向けて3スレブチ抜きで怒涛の展開だなぁ!!開幕から応援し続けた身として、感慨深い。http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1298213409/

01:10
きたよきたよ三木一草がっ!やばいキャストばっかりでゾクゾクしてきた。「やる夫が鎌倉幕府を――」

01:55
sasasasasaさささ、佐々木道誉が伊頭鬼作だと!?…あり、かな?「やる夫が鎌倉幕府を――」

02:06
足利義詮と楠正行のキャストは京都の宝筐院の故事を狙ってのものだな。「やる夫が鎌倉幕府を――」

04:25
おわったぁ、おわったぁ、「やる夫が鎌倉幕府を継ぐそうです」が、終わったぁ。感無量です。キバヤシさん、すばらしい物語をありがとうございました

13:12
樺崎八幡宮(かばさきはちまんぐう)なう!

13:35
足利義兼と八幡神を並列して祀るという特殊な形式の神社です。本殿の下に義兼が埋まっております。ヨスガノソラのロケ地となった神社でもあります。

13:38
本殿前の広場ににょきにょきと「ヨスガノソラ」の看板がおっ立っております。よもや足利義兼も、死後萌え絵にとり囲まれるとは思っとらんかったでしょうに…。

13:43
本殿裏なう。本殿の底の部分に四角い柱が一本立っています。そこにうっすらと書かれた足利義兼の文字。この場所が足利義兼の即身成仏した体が埋められた地点です。神仏習合とはまた別の次元で、人、神、仏が渾然一体となっています。

13:48
本殿の左横には多宝塔の礎石が残っています。足利義兼の母の生家にして、娘が嫁いだ熱田権僧都の重弘(じゅうこう)によって創建されました。

13:55
おまけにその横には3メートル平方の広場があります。ここは足利義氏(あしかがよしうじ
)の供養塔があった場所です。足利義氏は義兼の息子で、鎌倉期に足利氏の礎を築いた人物です。八幡宮本殿と多宝塔、義氏供養塔の三尊並列という、この上なく特殊な神社だということが分かってきます。

13:57
さらにその前方には地泉回遊式の浄土庭園が広がっています。なに、このあらゆる宗教、宗派ごたまぜの神秘空間は…。

14:03
三尊の横には足利氏の御廟跡があります。つまり義兼、義氏を筆頭に、一族郎党が横一列にずらっと、死後も仲良く並んでいるわけです。すさまじき家族の肖像哉。

14:10
バン阿寺から樺崎八幡宮まで町石をかたどった看板が並んでいます。奥州征伐において足利義兼を中心に行われたのですが、その戦勝祈願を護持僧の理真上人に行わせました。樺崎寺(樺崎八幡宮の明治以前の姿)はその目的で作られたものです。

14:14
バン阿寺から樺崎までは約7キロの道のりです。「やる夫が鎌倉幕府を成立させるようです」の冒頭、家女房役の銀ちゃんが義兼に会うために毎日この間を往復していました。14キロを毎日って、すごいなぁ。

14:24
樺崎八幡宮では現在史跡整備事業を行っています。平成17年に山麓部分の整備が終わり、以降は浄土式庭園の整備に着手しています。現在は駐車場になっている下御堂法界寺の部分も整備してほしいです。

14:29
足利義兼公の絵馬を購入しました。自宅で痛絵馬にして奉納差し上げようと思う所存也。

14:35
樺崎八幡宮は山裾に建立されているのですが、背後の山が来迎図に出てくるようなフタコブ型の山なのです。その姿は浄土信仰の対象となっています。この樺崎の地を義兼が選んだのはそういった理由もあると思います。

14:46
光得寺なう。明治期の神仏分離で足利一族の供養塔は樺崎八幡宮からこの寺に移されました。しかし近年の整備事業で再び樺崎の地に戻るようです。近年、明治の神仏分離の揺り戻しが起きているのは私としては大変喜ばしいところ。

15:15
法玄寺なう。足利義兼の庶長子・足利義純(あしかがよしずみ)が義母・北条時子の菩提を弔うため創建しました。

15:20
北条時子姫五輪塔なう。足利義純によって作られたもので蛭子塚(ひるこづか)と呼ばれています。時子は北条時政の娘で、足利義兼の正室となります。足利には彼女を祀る施設がそこここに見られます。

15:39
足利学校なう。上杉憲実によって整備された関東最古の大学です。フランシスコ・ザビエルも紹介しとりますです、はい。

15:43
ここからバン阿寺までの参道は石畳が整備されていて、素敵です。お店もカフェやら足利絹を扱っているお店やらが並んでいます。

15:46
バン阿寺なう。足利義兼の法号から採られた寺名で、足利氏の居館跡がそのまま伽藍になっています。

15:49
本堂、鐘楼、東門、西門と多くの建物が鎌倉時代の姿を残す。関東屈指の伽藍です。おまけに足利氏の居館の掘り割りが残っており、中世武士の館のすがたを今に伝えています。

15:53
伽藍の姿が整ったのは義兼の息子の義氏の頃で、本堂は天福二年(1234)に建立された当時のものが現存しています。本尊を大日如来とする壮大な五間堂です。

16:01
本堂左横、不動堂なう。この二つの堂の間に石の蓋で閉じられた井戸の跡がある。この井戸が時子姫が非業の最期を遂げる原因となる。

16:03
蛭子堂なう。時子姫を祀るお堂。井戸の水に沸いた寄生虫が原因で時子は義兼に不義密通を疑われる。身の潔白を示すため、割腹自殺を遂げる。それ以来、蛭子として祀られることとなる。

16:10
西門なう。足利義兼創建のものではなく永享二年(1432)に修復したもの。

16:15
バン阿寺の境内って京都の東寺に雰囲気が似てるんだよなぁ。後に足利尊氏が東寺の境内に立てこもって戦ったり、梵鐘を寄進したりするんだけど、東寺と自分の実家の類似でシ、ンパシーを感じていた部分があるんじゃないかしらん。

16:20
鐘楼なう。建久七年(1196)の建物。創建当時からのもので境内最古の建物。様式は和様と大仏様の折衷です。

16:39
正義山法楽寺なう。足利義氏法号(正義)から山号が採られているが、正義山っていうとなにやら梁山泊みたいだなぁ。

16:54
行基山展望台なう。足利市内が一望できます。ここに立つと樺崎は足利の鬼門を守る地なんだということが、よく分かります。


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