相対できるのか

行為に対して、自分を相対化するすべを持たない。

みんないろいろな方法で、今回の出来事を相対化しようとする。

いわく、あれは正しいやり方ではない。
いわく、あそこよりも他に行く場所がある。
いわく、他にやることがある。

しかし、数の前では無力だ。あなたと同じことを考えて逡巡していた、同じようなメンタリティを持った他人は、あの中に探そうと思えば、容易に探し出せる。それだけの人数が集まってしまった。

数万人に対して、私は彼らを相対化するすべを持たない。なぜならあの中に私ほどの人間は何人も含まれているからだ。

歴史に学ぶ人々はあれを過去の出来事と比較して相対化するかもしれない。
しかし、それをすればするほど、彼らが今を生きていないもの、何者でもないことを証明してしまう。過去はいつだって、過去を愛するものにとっては無力だ。今を愛するものにしか過去は微笑まない。

肯定しろ、とは言わないし、言えないが。もう、「あれ」ありきで考えるしか、ないんじゃないの?

「あれ」と、どう向き合うか、どう組み込むかで話を進めていくべきで、「あれ」が、是か否かという段階でいつまでも立ち止まっていたら、あれどころか、あれを生み出した原因にもいつまでもアクセスできないまま、ぐるぐる回る衛星なんじゃないの?

だから、自分はあれを相対化するすべをもたない。