阿弥陀教から、ゾロアスター教へ。さらに、先へ  〜まどか☆マギカ劇場版を見て〜

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語、見てきました。

うん、感想は。よくぞ「こうしてくれた」と。

テレビをリアルタイムで追っていたとき、私は「結末はこうなったらいいな」という予想を何通りか、立てていました。
その一つにテレビ版の結末もありました。まどかが全ての魔法少女の思いを己を対価に救うという、結末も。
私はそれを仮面ライダーブレイド型」と名付けていました。仮面ライダーブレイドの主人公・剣崎は生物が相争うバトルファイトの連鎖を止めるため、その連鎖の中心で苦しむジョーカーを救うため、自らがジョーカーとなり、戦いの連鎖を止揚します。
まどか神の存在がありながら、魔女の連鎖が止揚されただけという点では、ブレイドと類似性があります。

テレビ版で描かれたまどかによる救済。その荘厳さに心を打たれた一方で、「ブレイドのその先を見せて欲しかった」という、私の中の一抹の思いも残り続けていたのです。

…しかし、今回は見事に「やって」くれた。
その先を、見せていただいた。

前回のまどかによる救済を「書き換え」、ブレイド型のさらにその先へと行ってくれた。
そう、今回の「叛逆の物語」の構図を何に例えればいいのだろうか。何と言えばいいのだろうか。ああ、アレだ。ああ言おう。

…叛逆の物語は、二神教で、二元論と化したゾロアスター教型」なのだ。

  • 阿弥陀三尊 まど神さまと眷属と

前回の宇宙神となったまどか神さまは、放送後、阿弥陀如来に例えられました。
宇宙の果て、西方極楽浄土で光を発し、あらゆる煩悩にまみれた人々をその死とともにただちに来迎し、救う。絶対の救世主。
今回の劇場版でもそのイメージは強化され、さらなる追加要素によって、より強調されています。
それが、まどか神に付き従う二人の眷属の存在です。

観音菩薩勢至菩薩は、阿弥陀如来の眷属です。この三尊をして、あらゆる宇宙のあまねく衆生を極楽へと導きます。
観音菩薩水の女神・アナーヒタを源流としている菩薩です。どこにでも自由自在に現れて人々を救います。手には水の神であったときの名残の水瓶を持っています。というか、本作ではさやかちゃんです。属性、水やし。
勢至菩薩は人々が餓鬼道や地獄道に落ちないように見守り、助ける存在です。チーズを貪る餓鬼道を逃れ、人々を救う百恵なぎさはまさにこれです。
この二人の眷属を遣わすことで、魔法少女の救いを求める声を察し、来迎するまどか神。阿弥陀如来のイメージに本作ではより近づけてきたと言えましょう。

さて、この阿弥陀如来。別名に無量光如来という名前があります。無限の光をその身に宿した「ひかりふる」存在。その源流には中央アジアで発生したゾロアスター教最高神アフラマズダがあります。はい、ここでゾロアスター教と繋がってきますねえ。

実は、前作まで阿弥陀如来だったまどか神さまは、本作でアフラ・マズダーへと先祖返りするのです。

ゾロアスター教は世界最古の善悪二元論の宗教と言われています。善神アフラ・マズダーに対応する形で、悪神アンラマンユが存在し、あらゆる存在は善と悪の二つのカテゴリーに区分されるのです。
本作では暁美ほむらの「叛逆」によって、唯一神だったまどか神は、善悪二元論の一方の神へと堕とされます。阿弥陀からアフラマズダへの先祖返り。
そして悪神アンラマンユとなることによって、ほむらはまどか神とこの世界を二分する。あまつさえ、神だったことを忘れさせてしまうのです。ここらへんも人々が善なる存在による被造物であったことを忘れて生きているという、ゾロアスター教の思想が透けて見えます。

しかし、ゾロアスター教との違いもあります。
ゾロアスター教は善悪の二勢力がいるとはいえ、最終的には善の勢力が勝利し、世界は統一されます。
したがって二神教ではなく、一神教です。ですが、叛逆の物語。悪神アンラ・マンユと化したほむらはまどかと拮抗し、あまつさえその記憶を制御下に置くなど、拮抗の中にも優位を保っています。
つまりゾロアスター教よりも、より二元論であり、一神教ではなく、二神教なのです。

実はゾロアスター教の神々はオリジナルではなく、アーリア人の古宗教の神々を下敷きにしています。日本では天と阿修羅と呼ばれるのがその神々で、アフラマズダは阿修羅=アフラに、アンラマンユはダエーワ(デーヴァ)の王に属します。この古宗教では二つの存在は拮抗しているのです。

さてさて、ここで唐突に天にも阿修羅にも属さない存在の話をしましょう。
それがミトラ神。日本には弥勒菩薩として伝わった神格です。
この神は仲裁の存在として、天秤として、阿修羅にも天に、アフラマズダにもアンラマンユにも組みしません。善でも悪でもない、世界の調和を司る存在。
実は叛逆の物語の驚嘆した点として、この物語はキュゥべえをミスラに比する存在として復権させているということが挙げられるのです。

「えー、だって、今回のインキュベーターは小悪党じゃんか。まど神様連合にも、悪魔ほむらにもボコボコにされて、世界の片隅でほそぼそとしてるじゃんか」と、みなさんは言うかもしれません。
…が、違います。前作でも、今作でも。善神まどかも、悪神ほむらも、インキュベーターを世界に残して行きました。それは彼らを排除しきれなかったからか、前作ではそうでした。インキュベーターはまど神様の一神教の下でただの救いの道具と化してしまいました。しかし今作ではほむらは「世界を攪拌する存在として、インキュベーターを据え置いている」のです。
そこでインキュベーターはまどか、ほむら二つの意思の中間に存在する特別な「第三の点」としての位置を獲得したのです。
ほむらは、まど神さまが支配する世界も、自分が支配する世界も「調和そのもの」とは捉えず、いわば善悪転換を繰り返す世界そのものを「調和」として位置付けているのです。
その世界を、回転させる道具。カゴを回すハムスター。そしてある意味かけがえのない道具として、外部の存在としてインキュベーター復権させているのです。
これによってトリニティが成立し、インキュベーターはさながらミスラに近い、仲介者のポジションを得ることになったのです。
本人はむちゃくちゃ嫌そうだったけど・・・。


-まとめ 尾を喰らう蛇について

今回、かくまでの世界を確立し、仮面ライダーブレイドでも、はたまた神への反逆を描いたデビルマンでもない、「阿弥陀から古宗教へと先祖返りしつつ、新しくなりゆく世界」を確立した虚淵玄というライターに、私は賞賛を禁じ得ません。
そしてその善悪のたゆまない運動こそ、まさにウロボロスの輪、尾っぽを食らう蛇であり、ウロブチにも繋がるであろうと思うと、うう、よくぞここまでと。

ただ、ただ、頷くしか、ないのです。