仁を意訳すると「じんかん」か?
「仁」、儒教の根本概念にして、あらゆる徳目の故郷。
孔子の仁について述べているコメントも人とシチュエーションによって、てんでバラバラ。
なぜならば、仁とは共通して仰ぐべき徳目ではなく、一人一人違うもの、それぞれの人間が自分の身の丈で育てて行くものだからだと、私は考えます。
なので、私が仁を日本語にするならば「人間」。「にんげん」とは読まず、「じんかん」と読みます。
人が人と関わろうとする意欲、そんな微細な、そして根本的な意欲から、すべての仁は生じ、結局はそこへと尽きるのではないでしょうか。
仁、「人ふたり」と書いて、仁。
人は一人一人は似通っています。自分一人で煮詰まった思想は、どこか世界と、他人と、なかでも煮詰まった他人と、よく似ています。
でも、二人は誰とも似ていません。
人ふたりには、無限の組み合わせがあります。人さんにんでは、ある程度類型化され得ます。陰陽、二者の関係こそがもっとも無限を、感じさせる。
だから、仁はじんかんであり、人ふたり。
もっとも捉えにくい、「道」のように、捉えにくさを前提としたものよりも、目の前に見えるだけに変幻自在の実存なのでしょう。
だから、仁は隣にいる人によって姿をかえる。
だから、孔子は隣にいる人によって仁をあらわすことばを変えた。
ことばなきことば、仁を探す必要はありません。ただ、人ふたりを思い、じんかんに生きれば、おのずとそこに仁の影は見えてくる。
その影をふと「仁也哉」とささやくときが、瞬間が、自分の仁、なのでしょう。