先週は「内悪魔」と「外悪魔」について述べましたが、今回は「内悪魔」について考えてみたいと思います。そもそも悪魔は宗教の教義的な需要から生み出されたものと考えられます。人や国家が己の正義を謳うためには外敵が必要です。敵つまりは悪なきところに正義もまた存在しません。宗教に関してもこれは同じことで、みずからの正義、正当性を訴え、信徒を拡大するには必ず悪とすべき対象が必要なのです。現実世界のようにそれが具体的な人や国である必要はありません。むしろ克服すべき対象(仏教で言うなら我執)をイメージ化し、悪魔と名づける場合も多く見られるのです。世界宗教*1などではその成立当初においては具体的な人や国を悪魔と定義づけていたものでも、時が経ち、状況が変わるにしたがってそれらが次第に観念化していき、教理を説明するための方便になっています。
この段階において悪魔は教団内の神学者によって盛んにその存在について論議され、独立したものへとなっていくのです。その過程でどんどん抽象化されていき、最終的には観念として時代や地域を越えた存在となるのです。こうなった段階で完全に「内悪魔」になったと言えるでしょう。ありゃ、なんだか神様とそんなに変わりませんな?
来週は「外悪魔」について考えます。その後で、これら二者の比較、検討をとりおこなっていきたいと思います。

*1:仏教、キリスト教イスラム教の三つをさすことが多い